はらじゅく86のブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『柄澤齊 木口木版画集 1971-1996』

2017-10-05 13:03:35 | 日記


木口木版画の制作過程(彫刻部分)

◆一昨日、県立図書館から取り寄せてもらった『柄澤齊 木口木版画集』安部出版1996年を
地元の図書館から借りてきました。 定価12000円の大部な版画集です。1971年から
1996年の25年間に制作した作品が収録されています。

僕は版画についてなにも知らないので、まず、木口木版画の木口木版とはなにかというと
とろで立ち止まってしまいます。この口木版(こぐち)について調べてみると、木口に対して
板目木版画の板目木版という木版の手法もあるようなのです。 

ご存知の方には、僕がなにもここで検索してリンクを張る必要などないはずです。ですので、
これ以上はやめます。版画ということでは確か、小学生のころに授業で彫刻刀を握ったこと
があるような記憶があります。ことによると中学生の頃だったかもしれません。 

版画について、僕の記憶の中ではまずなによりも、棟方志功さんとその版画が目に浮かび
ます。僕たちの世代では、棟方さんを知らない人はいないはずです。棟方さんは文化勲章
を受賞したはずだと思い、念のためウイキペデイアを見たら、上記のリンクのように受賞さ
れていました。

それから20歳のころにデューラーの銅版画を見たのが印象に残っています。最初に目に
したのは、ゲーテかだれかの本の中扉に置かれていたキリストの受難物語を題材にした
ものだった記憶があります。デューラーの作品には聖書物語をテーマにした作品が多い
印象があります。 


デューラーの銅版画。キリストの受難をテーマにした一連の作品の一部。

◆ところで、『柄澤齊 木口木版画集』を拝見したのです。木版画の画集を見たのは初めてで
した。最初の印象は、これが木版画なのかという淡白な感じ方とともに、……作者は、この
版画で一体なにを表現したいのだろうか、というその版画に対する僕の不透明な、理解とい
う道筋からかけ離れた分からなさがありました。

このことをもっと率直に言ってみれば、その分からないというわからなさが、さらにまた分から
ないというわからなさを呼び込み、自分の感覚・感受性の貧しさをいつもより更に感じさせら
れることになったということでもあります。そして、一体自分のこの圧倒的な感覚の鈍さ・鈍感
さということは、僕の成育史の過程で形成された内面性の貧しさとして総括されることなのか
もしれない、と感じ入った点でもあるわけです。 そして、それに加えてそもそもの自分の資質
的傾向に起因することなのかもしれないという一面もあるのでしょう。

でもまた一方では、いやそれは単なる好き嫌いという性向の問題だけなのではないのか。
またそうした感じ方というのは人間の多様性の一つの側面なのだから、そうした多様性を否
定する負の総括の仕方というのは人間存在の複数性の否定ということになり、僕という存在
の個性とか人間性を否定することにもなってしまうのではないか。 とか。

でも、この二日間、版画集を何度かくり返して見ているうちに、なんだかわからないのですけど、
身近で見慣れた鉛筆画とか線描画という絵画としての馴染み感が増してくるのを感じられて
きたということでもあります。僕にとってその絵柄が何だか懐かしい絵として、僕の気もちの中
ですこしずつ安堵感をもった絵として居場所を占めてきたというわけです。そして、その版画に
ついて分かるわからないとか、感じるかんじないとかといった、見る側の堅苦しい使命感のよ
うなものから自由になっている自分を感じることが出来るのです。 

そしてしかし、ここでの絵画的作品は版画であるということなのです。絵筆で描いたものではな
く、刃物によって素材を削り取ることによって形作られた作品のわけです。そして木版を制作す
る過程というのは、かなりの力仕事
だと推測するのです。その刃物で彫刻する過程は、全身の、
その指先の、その眼差しの、集中力と想像力の、その極限の結晶としてこの版画は存立して

るのだということに思い至るわけです。そしてその後に、紙などに刷るという作業が続くわけで
しょうか。(もちろん絵画作品の制作が、そうした集中力と無縁だなどと思って
いるわけではない
のですけど)

そうしたことから、たぶん版画という芸術はその一つ一つの個別の作品が完成されたものとして、
その版画家の自筆での書名がなされた作品として鑑賞するというところに、そのだいご味がある
のではないかなと思わされています。つまり版画の観賞という行為は、この版画集を見るというこ
うした間接的に見るのではなく、生の作品に直面することの中でその作品の全体性を感受する
ことでしか、ほんとうの味わいはできないのではないかと思うわけなのです。

つまり、その作品の色合いの濃淡、線刻の深浅、彫刻刀の切り口でしか表現できない細密さとか
を感じるためには、実物の版画を見ることが必要なのではないかとおもうのです。少なくとも、実
物大の大きさと精密な画像とで印刷された画集・印刷物での観賞が必須要件なのではないかと。
版画家の実作品を自覚的に(多分本物を)見たことがないのですけど、なんだかそのような感がし
てきています。

またこの版画集では、巻末の「全作品リスト」に記されている数字を見ないと、作品の実際の大
きさが分かりません。木口版画というのはその素材の特性から、板目版画と違い大形の版画を
作成できないようです。(この版画集でも作品の大きさを感じ取るために、その数字を作品と同じ
ページに記載して欲しかった。そうした掲示は版画集として一般的ではないのかもしれませんが)

続きは、後でまた書かせていただきます。
何を書いているのかごちゃごちゃになってしまっているし、なんのことやら!ということだと思いま
すけど、まんいち読んでいただけたらなのですが。あきれはてないでください。