サトーさんが参加で~す
今日は合宿です。 さっきまでは、今日の前日だったんですけど、今はもう今日というわけなのですが。
グループの昔からの写真をコピーしたりしていたら遅くなってしまいました。しかし、このグループで撮った写真がたくさんあったので、懐かしくてつい見てしまったということでもあったのです。アルバムに収まっている写真は少しばかりなんです。ほとんどの写真は簡易アルバムに挿しこんであるか、ネガと一緒にバラバラになって袋の中に入っているというわけです。どうにもこうにも整理整頓という習慣からほど遠いわけで、自己嫌悪におちいってもいいところです。しかし、su-はこれしきのことでへこたれることもなく、これを書いたらもう寝ます。
しかし、そもそも写真のコピーなどは前日になってやることではないはずですよね。、本来ずっと前にやっておくべき事柄だったのです。と、こうして書いているなかで、ここでまたまたsu-は、以下のような余計なことばにあたまとこころが侵されてしまうのです。そのことばというのは、「習慣、すなわち機械的無意識的な行動は、真実の生活、すなわち道徳的完成の基礎である」。このことばは、高校時代につけていた日記帳の裏表紙に印刷されていたことばなのです。『戦争と平和』を書いたレフ・トルストイの言葉だそうです。そのころ私淑していたトルストイがいっているのだったら憶えるしかないと思ったわけではなく、なぜか自然に記憶に残ってしまったようなのです。
日記を開くたびに見かけていたわけですから当りまえなことだったのでしょう。それに、『方丈記』の冒頭の言葉のように長い文章ではないわけですから。高校時代に記憶した数個のフレーズのなかの一つというわけでした。でもなんだか”気になることば”であると思いませんか。そうなんです、子供のころに、親や先生からよくいわれそうなことばではないかと思うのです。。
でも、その時の日記帳に書かれていたことばって、もしかしたら何だかもっと長い文章だったようにも思えてきました。しかし、トルストイに私淑していたなどと書くのはおこがましすぎて、ぼくなどがいってはいけない言葉なのです。しかしこのことばは多分、トルストイの晩年のことばのような気がします。この”道徳的完成”という表現などは「道徳教育」をれんそうさせてくれますけど、でもトルストイ的な本義はキリスト教のというか聖書の「山上の垂訓」がイメージされているとおもうのです。
いずれにしても、いまの世のなかで使われていることばとは異質な表現みたいです。まあ訳文という問題もあるのかもしれませんけど。なんだか、嫌みたっぷりなことばのような気がしないわけでもないのですが?ぼくのことばもよれよれで、こうしていま書いている本人もよくわからないというわけです。でもじぶんが若いころは、けっこう真面目には受けとったことばだから今も頭の端っこに残っていたのだと思います。いずれにしても”過剰なる余談”でありました。
これから、9時におきるとしたら5時間以上も寝られます。それからきょうの宴会と二次会では、30分くらいずつ”座談の場”を設けたいのですが?目が覚めて起きたら交渉してみようかな?ウノさんとセキグチさんも、よろしくおねがいいたしま~すといっても読んではくださらないですよね…
いま、トルストイがいったということばの続きを少し想いだしました。「人がそれを得て、役目の終ったものの領域のなかへ入れておく…?」僕以外の方にとってはどうでもいいことなんですけど、しかし、「 …?」に当てはまるいうことばはまったく想いだせません。といういうことは、ぼくの記憶力は高校生時代でも、やはり今と同じようにダメだったということの証明に終ってしまいそうです。
いま朝なのです!このなんだか嫌みなてんもある書きこみを、消すべきか消さぬべきか迷ったのですが、ぼくにとってのひとつの想いでなので残させていただきます。いつもながら、ほんとうにすみません。”想いでノート””にっきノート””びぼうメモ”…?、ボケ防止のひとつの有効な手立てであることはまちがいありません。