言葉をあまり急に勉強して語彙が豊富になってくると
言語思考感覚器官において
他者に近づいた時に予感の量が増えるから
ある意味で迷惑な能力だ。
意識的に頭脳で練っている最中の言葉は
入力というよりも出力としての側面や要素が大きいので
それほど苦にはならないが
反射的に生み出される言葉は
現状を述べる事に成功していたとしても
はたして未来を自己決断しているかという点においては
かなり疑わしい。
そもそも言語思考の感覚器官を6番目と枠決めする事自体が
世の中の常識に逆らいすぎなのかもしれないが
五官の実感に当てはまらないから6番目のIDを振っただけである。
この考え方はミームに近いものがあるかもしれない
ただ、僕はミームのような近代概念ではなくて
もっと過去からの歴史的遺産であると踏んでいるが。
言語覚を医学的に体内の変化として
しっかり測定する事は出来ないものだろうか。
唯脳論的に考えると
暗闇を移動するコウモリの聴力が異常発達するように
大脳新皮質が進化していく事で
新しい世界への扉が開く時、
感覚器官は異常発達するのかもしれない。
そういう意味ではIT革命によって
言語思考の感覚器官はまさに歴史的に
ある意味では強制的な時代の力によって
発達せざるを得なくなったということなのかもしれない。
情報を知っているかどうかが
生存競争において多大な重要性を持ってきた近代、
僕らの創作芸術は果たして芸術的価値を
歴史学者達から認められるのだろうか?
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