嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



人と関わる事から、逃げている気がする。
薄っぺらい対応、ありきたりの会話、踏み込まないように配慮した言葉。
単純に、人を避けているということではない。
多くの人とは、交流できている。
人数自体は、小規模なのかもしれないけど。

思春期の中学生の頃は、友達が一人も居なかった。
作文コンクールのタイトルは
一年生「円周率の話」
二年生「人間の生きる目的」
三年生「人間は生きるべきか死ぬべきか」
だったと憶えている。

思えば生と死の問題について考え始めたあたりから、
僕はいつも一人で自分について考えてきた。
自分一人しか居ないセカイで、ずっと想定の中で
自分という殻について考える行為は、
思えばずいぶんと変な行為であると思う。

誰かを好きになってから考える自分は、
たぶん、「自分にとっての自分」と、
「相手にとっての自分」の狭間で揺れる行為で
それは好意と行為と敵意と崩壊と憧憬に関する、
風景の破壊に似た心理描写を観察するような
じつに自己分析の牢獄のような繰り返しの無限ループであると思うのだ。

自分の殻を意識することは、
きっと多くの人にとって、
行為としては苦しいものなんだろう。
だけどそれが「苦しい行為」だと観察できているときは、
すでに半分自己分析は終わっている段階なのだと思う。

僕にとって問題なのは、
僕が僕自身の約束を裏切ってしまうかもしれない事に対する怯えなのだ。

あるいはまた、僕が僕を破壊するかもしれないということ。

僕が生きるにしろ死ぬにしろ、
・生きれば僕は自分を壊さなければならないし、
・死ねば僕は自分を殺さなければならない。

だから僕はエックスχがなにであるかを知っている。

僕がずっと悩んでいる連立方程式は、
答えを求める心に問題があると知っている。

【『「僕にとっていつも問題となるのは自分」なのだ』。】

ただ一点のみ、始まりと終わりの終局の特異点を探すような、
そんな完全な自分はどこにも居ない。
いつも想定される宇宙の始まりと終わりは、
いつも小さなセカイの始まりと、大きなセカイの終わりを
重ね合わせた「今。」という私に引き寄せる波だからだ。

どんな遠いセカイから打ち寄せる他者の心にも耳を傾ける神経質な時間が
僕という代弁者でしか無いのなら、
結局ぼくは私という空耳に風の声を澄ます殻そのものでしかないのだ。
ずっと自分を探し続ける行為は、
鏡を失っている場所では終わらない。

殻にとって、殻は鏡そのもので
私にとって、君は風のようにうつろう僕だから、
だから僕はいつでも君を心配したり、君の中に僕をさがしたりするんだ。
ずっと捕まらないものを追いかけるこころだと、しっているけれど。

セカイの始まりよりも遠いところに、君の心を探す
セカイの終わりよりも遠いところに、僕の耳を澄ます
ずっと君の声を聞きたいと願っている僕のもとで、
いつも鼓動の波は懐かしく打ち寄せる
激しくもなく、儚くもなく、消えていくばかりの僕だけど
君のことを知りたいと、いつも僕はココで思っているよ。

(消えた後で代入するための言χ葉)

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