老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『愛の予感』

2007-12-02 09:09:20 | 映画
昨日は映画の日。普段1,800円の映画を1,000円で見ることができる。なかなか気前のいい割引だ。似たようなのは飛行機の特割り切符。こっちもほぼ半額になるが、変更する場合はキャンセル料を払って新しい切符を買いなおさなければならないなど、買う側にリスクが求められる。映画の日も毎月1日だから、土日でもなければどんな重要な会議があっても会社休んで行くしかないわけで、首をかけて映画を見るかという、そういうリスクは同じようにある。
で、昨日見たのはチマタで話題のコレ。今年のロカルノ映画祭金豹賞(グランプリ)受賞だそうだが、ソレってドンダケーなもん。モノの本によると、掘り出し物的、実験的、カワリモノ的映画が過去のグランプリをとっている。見たらやっぱりその筋の作品ではあった。

14歳の少女同士で殺人があって、殺した側の、夫と別れて母子家庭の母親と、殺された側の、妻に先立たれて、今度は娘にも死なれた不幸な男の話。どちらも事件直後はマスコミの餌食になって、根掘り葉掘り生活をえぐり返される。内面を蹂躙されるって感じ。よくあることでそれだけでも映画になるが、ココではさらりと次に進む。
一方は会って謝りたいといい、一方は顔も見たくないといいながら、二人とも世間の監視から逃れて北海道の小さな町に移り住む。偶然、だと思われるが、男は製鉄工場で肉体労働に励み、女はそういう労働者が寝泊りする民宿で調理の仕事をしている。その辺の経緯はまったく説明的描写がなく、あり得ない偶然でそういう状況になっていて、そこでの毎日変わりのない日常が延々と繰り返し映される。この辺がカワリモノ映画のカワリモノたる所以で、セリフも一切なく、間違い探しの絵を見せられるように、毎日の光景が、変化していないようで、少しずつ変化しているように繰り返されるのだ。面白いといえば面白いが、かなり微妙。

ただ映画として表現されていることは実にストレートで、人間は愛なしでは生きていけない、というようなこと。究極の不信から出発した2人が、壮絶な孤独ジゴクの中でお互いに存在を認知しあう、くらいのところまで。その辺が「予感」なわけだ。
男のほうは女が娘を殺した相手の親だということを、多分、途中で気付いているが、女のほうがどうだったかは最後までわからない。すべて、見る側の想像にまかされている感じで、なんでもかんでも説明して、わかりやすいことだけがトリエの、、字幕に心理描写まで書かれてしまうのよりはありがたい。

女役は「殯の森」でグループホームの主任サン的な役をやっていた渡辺真起子。最初の、マスコミの餌食になりながらも突っ張っているのが、どうしてその後、延々と自閉的になってしまうのか、その辺を読み取らないと、作者の意図は理解できないんだろう。
監督・脚本・主演は小林政広。最後の歌はかなり説明的だった。

12/1、ポレポレ東中野にて。