老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『パニック・裸の王様』 開高健

2007-07-08 09:00:36 | 文学
人間が肉体と意識で成り立っていて、意識=精神が失われることは人間にとってひとつの死であることは間違いないので、その意識=精神を残しておくために、こうやって、自己満足と知りながらも文章を書くことはジブンにとって意味のあることだ。200年後のワタシの子孫が、200年前の先祖の意識=精神を読み返すことは、写真以上にリアルにワタシを感じてくれるだろうと。もちろんこういう形式がいつかオシマイになって、別の形式に変換されて、コピーされて、保存されていけばの話だが。

魚釣りと酒飲み以外に印象のなかったこの作家の作品を、死んでから20年近く経って初めて読んで、その精神をまのあたりにした。先日出張先で見たNHKテレビの映像も、作家の精神を断片的に伝えてはいたが、それは制作者によって都合よく編集されたものだったから正確なものではない。こういう人だったのか、と、文章はリアルに作家の人間としてのイメージを喚起してくれる。
だから、半年から1年間、同じ作家を集中的に読むとして、意識が明晰な残り少ない生涯にあと30人読めるかどうかというところで、こういう人間がいたということを、知っておかなければ死ねない人を選んで読んでいかなければならない。やや悲壮的に見えるかもしれないが、50半ばでほとんどボケ状態の上司を見ているとこんな気持ちになるのも仕方ないのだ。

この作品集は、それまでサントリーの宣伝誌の編集をやっていた開高健が、作家としてデビューした頃の作品を集めたもの。(最近、その宣伝誌に関する本が出て、そっちのほうもおもしろそうだ。)
「パニック」は、120年毎に花を咲かせる笹が、開花して実をつけた秋以降、その実を食べて繁殖するネズミの大群を巡って大騒ぎになるという話。それに対応できない役人社会と、その中で一人冷静にそのパニックを眺めている若い研究者を引き合いに出して、ひとつの方向に群れて移動するネズミ=人間社会の中で、群れからはずれては生きていけないことを、その若い研究者が悟るという印象深い場面で終わっている。
「裸の王様」は、かなり想像していた話と違っていたが、児童画教育という偽善者の集まりのような世界で、リッパな思想を持った若き進歩的教育者が、結局はまわりからおだてられて木に登っているサルだったという話。今選挙がらみで話題になっているヤンキーだか、ファンキーだか、ああいう「先生」をイメージして読むとピッタリ。
ほかに「巨人と玩具」は作家自身がかかわっていた広告業界で、終わりのない競争に明け暮れて疲弊していく男たちを描いたもの。最後は死しかない、というあたりがリアルだ。

テレビ番組で開高さんは、小説は社会への告発でなければならなくて、テーマを探すのに相当苦労していたようなことを言っていた。それでも、小説は社会の問題点をえぐり出し、その本質を見極めて、真のワルモノを寓話にのせて告発する、というスタイルを貫いた作家だ。今ならまた、テーマが山のようにあふれているようにも見えるが、、薄っぺらなヤクニンや政治屋のシソウなど書くにも値しないと言うだろうか。