老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド

2006-12-02 12:59:51 | 文学
出版社と翻訳者のサービス精神が30ページ近いあとがきに表れているとおり、「村上春樹訳」がこの本のウリだ。今やノーベル賞候補、来年あたり、受け取るかどうかは別にして、その前座としての文化勲章まちがいなしの巨匠の域に達した村上ファンド、いや村上ハルキ。たいしたもんだ。
このことにワタシは批判的なわけではまったくない。むしろ「風の歌を聴け」から「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」くらいまでは熱狂的な村上ファンだったわけで、糸井重里との「夢で会いましょう」まで初版で持っているくらいだ。スナオになれといわれれば、まわりが騒ぎすぎていることに、多少、斜に構えたくなっているだけだと言うしかない。

この作品について村上さんは、「カラマーゾフの兄弟」とレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」と並んで、これまでの人生で出会ったもっとも重要な作品のひとつであり、特にこの作品に巡り会わなかったら今の自分はないというようなことまで書いている。
そういう位置づけを知らずに読んだとしても、明らかに村上春樹が書きたいと思っている文学作品のお手本のようなものだということはすぐにわかる。とりわけ「羊をめぐる冒険」あたりまでの、言葉のひとつひとつのつながりが、その場面を目の前に漂うように浮かび上がらせる書き方は、そっくりそのままこの作品に見ることができる。というより、作品すべてがそういう言葉のつながりで書かれている。
たとえばこんな風に。

・・その部屋の中で完全に固定された物体といえば、ひとつの大ぶりなカウチだけで、二人の若い女性が、係留された気球に乗ったようなかっこうでそこに浮かんでいた。どちらも白ずくめで、そのドレスは千々に波打ち、はらはらと揺れていた。まるで家の周囲をちょっとのあいだ飛行していたのだが、ついさっき風に吹かれるままに部屋に戻ってきたのだといわんばかりに。・・

フィッツジェラルドと村上春樹は、もはや対等に並べられるべき存在だと思うのでそのように書くと、二人に共通するするのは、もちろん語られている物語も充分におもしろいのだが、言葉が作り出す空気のようなモノが作品そのもののように存在することだ。簡単にひと言で言い切ってしまえば、文学とは言葉の予想もしないつながりが作り出す、がらんどうの空間のようなものだということ、だろうか。

村上春樹はこの本のタイトルを「グレート・ギャツビー」とした。ワタシのような世代にはロバート・レッドフォードが主役を演じた映画の題名のほうが頭にしみこんでいるから、「華麗なるギャツビー」のイメージで主人公をとらえててしまいがちだが、この翻訳からも、ぜんぜん華麗なる、ではなかったことがわかる。
村上さんはこの作品は原語で読まなければ、その本当の価値はわからない、というようなことも書いている。たとえ原文を読んでもそこまで読み込めないワタシとしては、心臓外科の医者にすべてを委ねる患者のように、この作品はこういうものだったのかと思うしかない。
それにしても、本当に美しく完璧な作品で、物語はそれにふさわしい陰惨なものになっている。

巨人とヤクルトとは比較にもならない魅力的な二つのプロ野球チームがあり、大停電が起きれば人々があのトラスでできた籠のような橋を歩いて渡り、夏の夜には広々とした芝生の上でサイモンとガーファンクルのコンサートが開かれる。そして純粋な何人かの若者が、多くの命を犠牲にしても破壊しなければならないと思いつめたあの町が、この作品の書かれた1925年にも、世界の中で特別な場所であったことがよくわかる。

中央公論新社版 2006年刊。

富士山 061201

2006-12-01 08:23:01 | 窓際
12月の朝日を浴びる富士。
遠くに薄べったい伊豆半島が地図と同じ輪郭を見せる。
あんなところに歩いて登る人の気が知れないが、
そういう浪費を受け入れる愚鈍さに憧れることもある。