雨の金曜日。夕方会社を出て新宿の映画館に着くまでは一旦やんでいたが、帰りの電車が家に近づく頃に急に土砂降りになった。曇りのち大雨。だからっていう訳じゃないがこういうのを見ると映画って高い。これで1800円かよー、みたいな。期待はずれ、がっかりっていうこと。
去年芝居を観たアメリカ人の演出家、ロバート・アラン・アッカーマンが監督をした映画。アメリカ人のねーチャンがニッポンでカレシに振られて、自分は何をやってもダメ、みたいに思っているところに、家の目の前にあっていつも賑わっていて後光が差しているようなラーメン屋に飛び込んだら、そこには幸せな世界があって、自分もラーメンを作ってみんなを幸せにしたい、みたいな単調な話。監督が言うには「タンポポ」へのオマージュで、そのために山崎努をチョイ役でだして、なんでかなーみたいな演技をさせている。
なんでこんな話なんだって思うのは、この監督のシソウの背景にはこの前の芝居もそうだったが、異なる民族の文化の違いは必ず理解しあえてみんな仲良し、みたいなものがあって、この映画ではニッポン人とアメリカ人の対比をやたらに強調して、西田敏行演ずるラーメン屋の頑固オヤジがニッポン人はこういうもんや、みたいに最初から最後までわめき続けたり、それに対して髪キンねーちゃんはアメリカ人は自由、みたいに叫ぶ。それでもって最後にはセンセイ、アトツギ、みたいに抱き合ってハッピーハッピーっていうのも。そんなのあり得なーい。
結局は個人の問題のことをそういうふうに国民性、というか、民族の違いみたいにして単純化して誇張して、それで作品デス、って言われても、そんなに簡単なもんじゃない。アメリカ人のあんたにそんな風に十羽ヒトカラゲみたいにされたくないみたいな。。
おまけに日本企業でサラリーマンしている英語ペラペラの在日韓国人まで登場して、保守的で会社にガンジガラメに縛られているニッポン人サラリーマンのアホさ加減を嗤っている。
この監督、というかこの演出家は異国のニッポンで役者集めて芝居をやっているからこそかもしれないが、民族観みたいなものを意識しすぎているんじゃないか。そういう部分に突っ込んでいきたくなるキモチもわからないでもないが、今回のはあまりに話が浅すぎて、ラーメンに関しても単なるネタに過ぎなくてその奥深い世界を見せてくれるわけでもなく、いろんな面でがっかりな映画デシタ。
石橋蓮司を見れたのはよかった。
2008年アメリカ映画
090130 テアトル新宿にて
去年芝居を観たアメリカ人の演出家、ロバート・アラン・アッカーマンが監督をした映画。アメリカ人のねーチャンがニッポンでカレシに振られて、自分は何をやってもダメ、みたいに思っているところに、家の目の前にあっていつも賑わっていて後光が差しているようなラーメン屋に飛び込んだら、そこには幸せな世界があって、自分もラーメンを作ってみんなを幸せにしたい、みたいな単調な話。監督が言うには「タンポポ」へのオマージュで、そのために山崎努をチョイ役でだして、なんでかなーみたいな演技をさせている。
なんでこんな話なんだって思うのは、この監督のシソウの背景にはこの前の芝居もそうだったが、異なる民族の文化の違いは必ず理解しあえてみんな仲良し、みたいなものがあって、この映画ではニッポン人とアメリカ人の対比をやたらに強調して、西田敏行演ずるラーメン屋の頑固オヤジがニッポン人はこういうもんや、みたいに最初から最後までわめき続けたり、それに対して髪キンねーちゃんはアメリカ人は自由、みたいに叫ぶ。それでもって最後にはセンセイ、アトツギ、みたいに抱き合ってハッピーハッピーっていうのも。そんなのあり得なーい。
結局は個人の問題のことをそういうふうに国民性、というか、民族の違いみたいにして単純化して誇張して、それで作品デス、って言われても、そんなに簡単なもんじゃない。アメリカ人のあんたにそんな風に十羽ヒトカラゲみたいにされたくないみたいな。。
おまけに日本企業でサラリーマンしている英語ペラペラの在日韓国人まで登場して、保守的で会社にガンジガラメに縛られているニッポン人サラリーマンのアホさ加減を嗤っている。
この監督、というかこの演出家は異国のニッポンで役者集めて芝居をやっているからこそかもしれないが、民族観みたいなものを意識しすぎているんじゃないか。そういう部分に突っ込んでいきたくなるキモチもわからないでもないが、今回のはあまりに話が浅すぎて、ラーメンに関しても単なるネタに過ぎなくてその奥深い世界を見せてくれるわけでもなく、いろんな面でがっかりな映画デシタ。
石橋蓮司を見れたのはよかった。
2008年アメリカ映画
090130 テアトル新宿にて