老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『青いパパイヤの香り』 トラン・アン・ユン

2009-06-21 15:18:31 | 映画
きのうから映画ばっかり見てる。コレはトラン・アン・ユン、ベトナム発音ではチャン・アイン・ヒュン監督のメジャーデビュー作。カンヌ映画祭の新人監督賞を受けている。ベトナムが舞台だが撮影されたのはパリで、すべてセットで撮影されている分、リアリティーがあまり感じられない、テレビドラマのような雰囲気もあるが、。

ストーリーは一人の女性の山あり谷ありのジンセイを、10代で金持ちの家の下女としておシンのようにその家の子供にいじわるされながらもケナゲに働いている時代と、その10年後にすっかり大人のオンナになって、その家を踏み台にして、というか、オンナの本能からにじみ出てくる魔力とでもいいましょうか、ひとことでいえばおイロケをいかんなく発揮してシアワセをつかみとっていく、そういう波乱の人生を描いたもの。薄幸の少女が成長してオンナとして世間を見返す、みたいなよくある話。その分、オトコのほうはおイロケに吸い取られていくような下等動物的に描かれているのは仕方ない、というか、実際オトコは動物みたいなものだということで、性的な部分では人間も犬も猿もライオンもカバもオットセイもオオアリクイも大差ない。

主人公のオンナが青いパパイヤの皮をむいて、やわらかい白い部分を薄くそいで千切りにしてドレッシングをかけて仕上げるところがサクサクした食感まで感じられるようで印象的。パパイヤを二つに割ると中に真っ白な種が、米粒か小さな虫の幼虫のように、ハッキリ言えば蛆のように湧きあふれるのもキレイな映像だ。
そういう食べ物を官能的に描写するようなところは「夏至」にもあったような気がして、この監督の目で食べる、みたいな感覚は独特なものがある。女性がややジメジメした裏庭みたいなところで黒髪を洗うシーンも非常にsexualで、薄い布をまとって頭から水を流して髪と布がカラダにひっつく感じもまた、目でなめ回しているような倒錯的な世界である。

ヒュン監督はこのあと「シクロ」でヴェネチア映画祭のグランプリを獲るのだが、そのあとの、きのうの「夏至」を最後にベトナムを舞台にした映画からは離れていく。つい最近はキムタクもでてくるレを発表したばかりでその次は「ノルウェーの森」というわけ。
実は「シクロ」ももう見たのだが、ベトナム戦争のときにジブンの親が拒絶して捨て去った共産主義国家としてのベトナムに、ジブンは永久に戻れないということをサトったんじゃないかというような、ベトナムに対する疎外感っぽい雰囲気の漂う映画でシタ。ワタシもまた外人としてベトナムに進んで疎外されている身だけに共感っぽい雰囲気。

1993年、フランス・ベトナム映画


『夏至』 トラン・アン・ユン

2009-06-20 17:31:45 | 映画
ハノイはこのところやたら暑い。マジ、激暑。もうすぐ夏至だし。朝の8時くらいでオフィスまで15分歩くと汗がしたたり落ちてくる。でもまあそれくらいなら耐えられる。昼になるともうだめ。息を吸うと肺の中が熱くなる。体温より暑いから。10分も外にいたら意識がだんだん薄くなって、まだ倒れるまでがまんしたことはないがそのままだと必ず倒れる。そういう暑さの中を観光客が死にそうな顔で観光している。特に必死なのがニッポン人。眉をしかめてタオルで汗を拭きながら黙々と歩いている。見ていて痛々しいが彼らにはそれが楽しいのだろう。ああやって苦しみを分かち合うことに意味があるのだ。相手がたまたまパックツアーで知り合った見ず知らずの他人であろうと同じニッポン人同士として。

そういう光景を横目で見ながら久々のハノイの週末をタクシー使って買い物巡り。
今日はJALの機内誌で読んだベトナム映画のDVDを買いに旧市街へ。トラン・アン・ユン-tran anh hung監督の「夏至」と「青いパパイヤの香り」と「シクロ」がみつかったのと、店のオジョーちゃんが、ベトナム映画ならコッチの方がいいと言って、必ずコッチから先に見るようにとまで言った「tres estaciones(邦題:季節の中で)」ってコレ、アメリカ映画じゃん、と「gardien de buffles(邦題:バッファローボーイ!?)」と、「vuot song」ってコレもアメリカ映画を購入。全部で90,000ドン、500円ナリ。
ユン監督のがベトナムの日常をベースにした人間の微妙な感情のドラマみたいなのに対し、オジョーちゃん推薦はかなり芝居がかったスペクタクル映画ってな感じで、コッチのニーズとはややずれていた。で、ユン監督は村上春樹サマの「ノルウェイの森」の映画化で監督に選ばれた人でもあり、スベるかハマるか、それもまた見もの。

ウチに帰ってさっそく言われたのじゃないコレを見た。テーマは3人の美人姉妹の日常のシアワセとその陰で静かに進行する男女の感情のモツレみたいなもので、場面が突然世界遺産のハロン湾のようなところに、しかも合成であるのがすぐにわかるようなつくりで跳んでったりして若干興がソガれたが、ハノイの町の奥深い感じがきれいに映されていてまあまあの内容。
ユン監督はベトナム人だがパリに住んでいて「青いパパイヤの香り」で注目され始めたヒト。やや退廃的な映像感覚がベトナムに住んでいる人たちには違和感があるのかもしれない。
映像で見るとハノイもなかなかきれいな町に見えるのだが、実際はドブの臭いと食べ物の匂いが混じり合って、そこに熱風が吹き込んでくる感じで、それが映像では見えなくて伝わってこないのは残念。

2001年、フランス・ベトナム映画。

『インスタント沼』

2009-06-11 22:42:44 | 映画
インスタント沼というのはインスタントコーヒーのコーヒーが沼になったと思えばいいことで、沼の素である特殊な砂に水をかけると沼になるというもの。ストーリーはあるようでないようで、、ハッキリ言ってストーリーなんてどうでもいいというような内容。それでもワタシはカンドーしてしまった。こりゃスンゴいみたいな感じ。
映画が始まる前に監督のコメントみたいなのが流れて、くだらない映画デスみたいな実に謙虚な説明があって、どれくらいくだらないのか期待でアソコがふくらんだが、ってべつにアソコがふくらむような映画ではないのだが、なんというか、くだらないどころかイキる希望が湧いてくるような映画だ。

一応ストーリーは若い女の子がいて雑誌の編集長かなんかやっているのだが全然売れなくて、最後の企画で心霊現象特集をやろうとするのだが結局ダメで、そうこうしているうちに松坂慶子サマが演じる母親の家の庭に河童がくるのを母親が娘に見せようとするのだが娘は信じなくて、そうこうするうちに母親は沼にはまって死にそうになるのだが、その母親が意識不明で助けられた時に昔のポストが沼から引き上げられて、その中にその母親あての手紙があって、そのなかにその娘の出生の秘密みたいなのが書いてあって、その差出人=ジブンの父親に会いに行くのだが、そうこうするうちに相田翔子サマ演じる金持ちオジョーさまがエジプトのスフィンクス占いでその父親とデキてしまうことになって、でその父親がやっているコットウ品屋を見てジブンも骨董品屋を始める。
そのコットウ品屋がうまくいったかと思ったら父親のほうが店をやめることになってその父親から家に代々伝わる蔵のカギを買わされて、その蔵を開けたら中からインスタント沼の素がでてきてそれをヒトのいいパンクにーさんと一緒に昔いろんなものを捨てた沼の跡にまいて水をかけたら沼がよみがえって、そこから龍が飛び出してきてその龍のおかげで母親の意識が回復してメデタシメデタシ、みたいな。。

このカンドーのドラマを言葉で説明するのはキワメテ困難。見ないとコノ面白さはわからない。
監督は三木聡サマ。「亀は意外と速く泳ぐ」とか名作を次から次に作っているヒト。若い女の子を麻生久美子サマが演じていてノー天気なところをただのバカとは思わせない深い演技が光っていた。

2009.6.11 渋谷HUMAXシネマ

『Talk to her』

2009-04-26 12:12:05 | 映画
ペドロ・アルモドバル監督シリーズの中の傑作中の傑作。これもまた特異な状況設定から人間の生の本質をえぐり出す、、というとあまりに表面的なとらえかたすぎるのだが、まあそんな感じの映画。
以下、あらすじで、読みたくない人はここまででサイナラサイナラ。。

まずかわゆくてカラダもばっちりの若いオジョーちゃんが、この表現はいかがなモノかと思うがいわゆる植物ニンゲン状態で何年もベッドで寝たままになっている。もともとはバレリーナである日交通事故でそうなってしまったらしいのだが、そのオジョーちゃんを介護しているのがややオカマっぽい看護士のオトコでカラダを洗ったり服を着替えさせたりしながら毎日返事をしない相手に話しかけている。実はこのオトコはこのオジョーちゃんがバレリーナをやっている頃からストーカーみたいに追っかけていて、今、病院で植物状態でいることでジブンの独占物になったというようなキモチになっている。

一方、もう一人の男が登場して、その男は闘牛士のオンナに惚れているのだが、この闘牛士もある日闘牛場で牛にのしかかられて意識不明になってしまう。で、看護士のオトコとこの男が病院で出会って同じ境遇なもんだから意気投合して行くのだが、ある日意識不明のオジョーちゃんがナント妊娠する。
誰がヤッタのかということになって当然そのオカマの看護士が犯人で、こういうのをゴーカン罪というのかどうかわからないが逮捕される。と同時頃に闘牛士女のほうも意識が回復しないまま死んでしまい病院にかけつけた男は看護士のオトコがいないのでどうしたのかと思ったら逮捕されて刑務所にいるということを聞いて面会に行って、オカマオトコのほうは早く女に会いたいみたいなことを言いながら、コレが何で罪なんだと思いながら、女に会えないことを嘆いてジサツする。

で、そのあとが天地がひっくりかえるような話で子どもを産んだ女が、子どもは生きて産まれなかったものの、ナント意識が回復して歩いているところを闘牛士男のほうが偶然見かけて、で当然、その女=若いオジョーちゃんのほうは自分を看護してくれた男のことなど知らないし、ましてその男の子どもを産んで、その子どもが死んだことも知らない。誰かが言うかもしれないが自分の意識にはまったく残っていない。そういう状況の中で闘牛士男はその女と偶然にも言葉を交わすような場面になって、オカマオトコに代わってこの女に惹かれるものを感じる。
この女が眠っていた間の世の中のできごとはいったい何だったのか、、普通には時間がだれにも同じように流れているわけだが、それがもしそうでなかったら、まあおもしろいというか、眠っている間に起きたことは本人には起きていないのと同じわけだから、時間の連続性とか記憶とか、そもそも意識、って何?みたいな映画。
ビナ・バウシュのパフォーマンスがそういう感覚を増幅するように挿入されている。

2002年、スペイン映画。バレリーナ役はレオノール・ワトリング。8割がた寝ているだけの役。



『All About My Mother』

2009-04-23 22:04:07 | 映画
ペドロ・アルモドバルさんの全映画!みたいなDVDを350円で買って以来、ほぼ1日おきに1作ずつ見てほとんど中毒状態。コートー無稽な状況設定から人間の本質をえぐり出す手法はキワメテ斬新かつユニーク。ココでユニークっていうのは日本語のヘンテコでダメなヤツ、という意味ではなくて、最上の絶賛状態を表す意味で使ってイマス。だからクサナギ君も実にユニーク。

で、今日はジブンのメモのつもりでコレについて書いておこうかと思ったところで、コレはある母親が主人公で、その母親はダンナが行方不明で息子と二人暮らしで、その息子はかなりジヘイ的なところがあって自分の考えたことを紙に書いておくような息子で、ある時その息子の誕生日に二人ででかけてその帰りにその息子が交通事故で死んでしまう。その母親は悲嘆にくれて一人で旅に出るがその旅先で若い女と出会うのだが、その若い女とはたぶん前から何か関係があったのかもしれないが英語の字幕でオッカケテいるとその辺はよくわからなくて、その若い女が妊娠して検査したらエイズにかかってて、それでも子どもを産むことになって、でその若い女が今をときめくペネロペ・クルスちゃんでまだ20代の前半ではないかと思うが実にかわいくて、まあそれはそれとして、クルスちゃんが子どもを産んだあとエイズで死んで、その葬式にその夫がカナリキミ悪いオカマ姿で登場して、話を聞くとその若い女の産んだ子供の父親がその夫だという、いくらエイズだからってそれはないだろー的設定。
その上、死んだクルスちゃんの子どもはエイズにはかかっていなくて、息子を失った母親はその子どもを自分の子供のように育てていこうと決意して、それによって悲しみから立ち直るという、なんでそこまであり得ない設定で話を進めていくんだろうくらいのキモチにはなる。

でもってそういう話の流れと交錯するように、その母親が昔、しろうとの劇団の女優をやっていて、それで今でも芝居をよく見るんだが、ある芝居にでている有名な女優がなにか共演している若い女優とうまくいっていなくて、そこに急きょピンチヒッターで登場して、むかしとったキネヅカ、みたいに喝さいを浴びて、それで息子の書いたメモにある息子の夢にこたえる、みたいな話が絡んでくる。
よくまあこういう話を考えついて、しかもそれを映像の流れの中で、見たものがおもしろいとカンドーするようにまとめ上げるもんだと感心してしまいマシタ。

映画の中で同時進行するある芝居というのは「欲望という名の電車」で、そのストーリーとの絡みがこの映画の一番の面白さなんだろうが、見たことないので残念ながらそこまで読みとれなかった。

主演の母親役はセシリア・ロス
1999年 スペイン映画


で、クサナギ君、飲んだ後で公園とかでスっ裸になりたい気持ちはよーくわかるなあ。べつにコーゼン猥セツとかいっても誰かをヤッタとかそういうことでは全然ないのに、シンチョーとか3流エロ系マスコミまでもがいっせいに血祭りにあげるのは見ていてそっちの方が醜い。しかも家宅ソーサクまで。。所詮小沢イチロウ秘書事件とつながる微罪見せしめ社会のなかのジミン党に飼いならされたメディアと検察なのだ。

『Out of Africa』

2009-04-18 17:13:11 | 映画
天気がイマイチはっきりしないので、洗濯物は午後から干すことにして朝から散歩。旧市街にDVD屋街みたいなのがあって、何軒も並んでいるところへ。店によって音楽モノだけのところとか、映画がABC順に並んでいるところとか、いろいろあって、3、4軒回ると希望のものが買える。値段はだいたい1枚15,000ドン。あえて円に直さないでおこう。

今日買ったのはコレら。
メリル・ストリープさまとロバート・レッドフォードの超名作「Out of Africa」にペネロペ・クルスちゃんの「Volver」。ニッポン題はどちらもへんてこなので忘れた。映画館でとっくに観たモノだが精神の安定のために買っておこうと思った。特に前者は。
思えば20年くらい前にコレを見たワタシはかなりのインパクトを受けて、アフリカには行かずにインドへ行った。メリル・ストリープが一等車に乗って行ったように、そのころはお金があったのでビジネスクラスで。でもっていろいろあってもごもご。。

まだあまり太っていないメリル・ストリープが、なんというかこんなヒトにならもてあそばれたいと思わせるような強烈なオンナを演じていて、それをロバートさんが押し倒してヤッちゃったあげく、オレはそれでも一人で行くぜ、みたいにしてアフリカの空の彼方に消えていく。航空撮影で水鳥がいっせいに飛び立つシーンはトリハダもんですな。
まあだからこっちにいて一人で発狂しそうになったら、コレ見てロバートになったつもりで妄想しようかと。

ついでに、というわけではないが、「Volver」の監督のペドロ・アルモドバルのがほかにないかとお店の人に聞いたら、コレがあるぜ、みたいにして全作品集を出してくれた。なんと60,000ドン。牛丼一杯分!
当分不自由しない。

『Doubt』

2009-03-08 22:09:01 | 映画
残り少ない日々。まさにカウントダウンの後半にさしかかって連日の映画。ホントは芝居に行きたかったんだがテキトウなのがなくて、メリルおばさんがでているコレを朝から見に行った。
日本語の題名はまたへんてこな尾ヒレが付いているが原題はコレだけ。カトリックの学校かどうかなんて関係なく、ニンゲンが持っている何かを疑うという気持ちと、何かを信じるというキモチの二つの両極端なヒトが登場して、その疑うほうをメリルおばさんが熱演していて、ヒトを疑って疑いぬいてもそこにはなにも得るものはないという、教訓的なおはなし。

ニューヨークの伝統あるカトリックの学校に初めて黒人の子どもが入学してきて、父親からの虐待を受けたり学校の中でも差別されたりで苦しんでいるのをゲイ?の神父が、どこの手だかわからないが手を差し伸べる、かのように、直接的には表されず、それらしくそのようなことがあったかのような思わせぶりな感じではなしが進む。
で、それを見ていた若いシスターとメリルおばさん演じるチョー厳しいその学校の校長がその黒人の子どもと神父との関係を疑い始める。それぞれが持っている不幸をなるべく軽くしてあげるのが教会の役目だという、なんというか民主党菅直人的、最小不幸社会の実現を目指している神父と、そういうヒトの道に反したことは絶対に許さないというチョー厳しいシスター校長が激しく闘う。そのゲイ?の神父は実際ナニをしたのかはあかされず状況証拠だけで学校から追い出されるが、それを追い出したメリルおばさん校長はジブンの抑えられない疑いのキモチに最後には耐えられなくなって泣きくずれる。

まあそれだけの話でこの宗教の部外者にはもの足りない感じもある。だからなんなのよ、ってなキモチ。ヒトを疑うのもホドホドにしないと、あるところから先は目をつぶらないと世の中生きてはいけない、みたいな、単純な解釈も可能ではあるが、はなしの深いところは宗教的な背景がわからないと理解できないということか。
それでもメリルおばさんはなんでまたあんなにヒトを疑うようになったのか、とか、あの神父はいったい子どもにナニをしているのか、とか、そういう現実的な部分は表にでないまま映画は終わる。結局のところ、メリルおばさん的な世の中を疑う目だけが批判的に描かれているようなところが強調されて、そういう映画ならかなり薄っぺらかったような感じも。。

神父役はフィリップ・シーモア・ホフマン。
2009年アメリカ映画。 090308 川崎チネチッタにて。

『小三治』

2009-03-07 19:04:50 | 映画
久しぶりのポレポレはコレ。落語って特に好きなわけではなくて、なんか説教じみたしゃべりかたのアノ人とか、親の七光りでヘタなのに師ショーみたいに呼ばれているアノ人とか、、見ていて痛ましく感じられる。好きなのはジサツした枝雀サンとか、ヒデェ女につかまって苦労している小朝サンとか、それとコノひととか数少ないが、そのドキュメンタリーということで行ってまいりマシタ。
昼間の2回目だというのにポレポレはほぼ満席。ここがこんなにいっぱいなのは初めて見たが客層はいつもと若干違っていたような。まだまだジブンが若く見えたし。

で、中身は小三治サンの日常というか、弟子が真打ちになってその披露の時のことや、寄席にピアノを持ち込んで歌歌った時のことや、兄弟弟子の扇橋サンと温泉に行って二人で相手のアソコにお湯を引っかけあってキモチいいとかいって安い遊びしてらぁ、みたいにしてるときのことや、そのあいまにあの独特な間の噺がはさまれるのだが、扇橋サンとの対比で天才の苦悩みたいなものがあぶり出されて、ああコノひともニンゲンなんだと気付かされる。
ジブンはネクラで落語家には向いてないといいながら、落語のオニのようにゲイの道を突きすすむ。マクラで時間使い過ぎて劇場から電気消すぞとおどかされて、真っ暗になっても話しつづけるぞと叫ぶ。ひょーひょーとしゃべりながら世の中と闘いつづけている。
小三治はスゴイ。落語界の白洲次郎だ。

楽屋で昼ご飯を食べた後にお膳の上を手拭いで拭く。小さんの弟子はみんなおんなじように拭くと言われて師匠と弟子はそういうもんだと思わせる。それは親子とか、監督と選手とか、部長とOLのオジョーちゃんとか、そういう心と心のつながりのあるところに共通するものだ。
入船亭扇橋サンがほとんどボケてるんじゃないかというような、なんとも言えない味のあるせりふと仕草でいい。

090307、東中野、ポレポレ東中野にて

ペネロペ・クルス

2009-02-25 23:47:04 | 映画
おととし『ボルベール<帰郷>』でシビレさせてくれたコノひとが、アカデミー賞の助演女優賞をとったのでヒソかにうれしかった。スバラしい衣装でタニマもみごとだったし。6月公開のコレは必見だが、いつものことながらヘンテコな日本語タイトルがじゃま。
今やっているアレはちょっとあり得ないんじゃないかって話で見るつもりはなかったが、共演者キラーとかって聞くと覗いてみたくなる。

メリルおばさんは巨漢をユスッて踊りまくるソレじゃなくて、地味なコレがノミネートされていたが残念ながら落選。コッチは3月公開だがイケるかどうか。それにしてもこう毎年のようにノミネートされていたらドキドキもしなくなるんだろうか。
ワタシとしては『OUT OF AFRICA』が永遠の名作。コレ見て生き方変わったし。ヘンテコな日本語タイトルは忘れた。

ほかの作品については特に感想なし。インドの子供の話なんか、いかにも英米人がヨロコビそうな作り話で、、内容をすべて理解している訳ではないが興味の対象外。

『ラーメンガール』

2009-01-31 14:45:12 | 映画
雨の金曜日。夕方会社を出て新宿の映画館に着くまでは一旦やんでいたが、帰りの電車が家に近づく頃に急に土砂降りになった。曇りのち大雨。だからっていう訳じゃないがこういうのを見ると映画って高い。これで1800円かよー、みたいな。期待はずれ、がっかりっていうこと。
去年芝居を観たアメリカ人の演出家、ロバート・アラン・アッカーマンが監督をした映画。アメリカ人のねーチャンがニッポンでカレシに振られて、自分は何をやってもダメ、みたいに思っているところに、家の目の前にあっていつも賑わっていて後光が差しているようなラーメン屋に飛び込んだら、そこには幸せな世界があって、自分もラーメンを作ってみんなを幸せにしたい、みたいな単調な話。監督が言うには「タンポポ」へのオマージュで、そのために山崎努をチョイ役でだして、なんでかなーみたいな演技をさせている。

なんでこんな話なんだって思うのは、この監督のシソウの背景にはこの前の芝居もそうだったが、異なる民族の文化の違いは必ず理解しあえてみんな仲良し、みたいなものがあって、この映画ではニッポン人とアメリカ人の対比をやたらに強調して、西田敏行演ずるラーメン屋の頑固オヤジがニッポン人はこういうもんや、みたいに最初から最後までわめき続けたり、それに対して髪キンねーちゃんはアメリカ人は自由、みたいに叫ぶ。それでもって最後にはセンセイ、アトツギ、みたいに抱き合ってハッピーハッピーっていうのも。そんなのあり得なーい。
結局は個人の問題のことをそういうふうに国民性、というか、民族の違いみたいにして単純化して誇張して、それで作品デス、って言われても、そんなに簡単なもんじゃない。アメリカ人のあんたにそんな風に十羽ヒトカラゲみたいにされたくないみたいな。。
おまけに日本企業でサラリーマンしている英語ペラペラの在日韓国人まで登場して、保守的で会社にガンジガラメに縛られているニッポン人サラリーマンのアホさ加減を嗤っている。

この監督、というかこの演出家は異国のニッポンで役者集めて芝居をやっているからこそかもしれないが、民族観みたいなものを意識しすぎているんじゃないか。そういう部分に突っ込んでいきたくなるキモチもわからないでもないが、今回のはあまりに話が浅すぎて、ラーメンに関しても単なるネタに過ぎなくてその奥深い世界を見せてくれるわけでもなく、いろんな面でがっかりな映画デシタ。
石橋蓮司を見れたのはよかった。

2008年アメリカ映画
090130 テアトル新宿にて