老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『MAN ON WIRE』 & 『The Cove』

2010-02-22 11:49:28 | 映画
今朝起きたらハノイは電気のスイッチが入ったようにいっせいに動き出していた。クラクションとか違法駐車とかも。でもってきょうから本格的にまた、ほぼNon-stopで1年間はたらく。ときどきニッポンに帰るとしてもアタマの中では何十もの皿を回し続ける皿回しとしてのワタシが右に左に飛びまわっている。動くのをやめると手の届かないところで皿が割れる音がして、ソレはすなわちクレームという形で何十倍かのダメージとしてワガ身に降りかかってくる。たまにわざと割ったりもする。見えないふりをしているヤツらに見せつけるために。
そういうときに、皿回しではなく綱渡りの映画を見ようと思った。綱渡りでヒトをhappyにするって、、皿回しももっとタノしくやれってことかな。

2008年のアカデミー賞を長編ドキュメンタリー部門で獲った。今は亡きニューヨークのワールドトレードセンターの2本のタワーの間を綱渡りしたときの記録映画。見ようと思ったが結局見なかった。きのう、散歩しすぎて夜には歩けなくなった。朝と昼で2時間ずつ歩いただけなのに足がだいぶ弱っている。

で、話はそれるが今週のHanoi Cinematequeはドキュメンタリー映画特集でこのあとニッポンのイルカ漁の映画もあるがわざわざ見に行くほどの自虐趣味はない。それぞれの民族にはソコだけは責められたくない、他国にとやかく言われたくないブンカの痛点のようなものがあって、ニッポンの場合はクジラ・イルカ関連とか死刑存続問題とか。クジラもイルカも食べなくたってほかに食べるものはあるのに、他国から責められれば責められるほど譲れなくなる。ココで批判を受け入れたら民族のアイデンティティを失うくらいの大問題と思っている。
そういうのはどの国にもあることで中国や韓国やこのベトナムでは犬喰いのこととか、中国ではもっと政治的なこともあるが、アメリカにだって人種差別問題があるしその反動としての黒人大統領でもあるわけで、いまさら演説がうまいだけといっても仕方ない。

ソレは一言でいえば自己矛盾のような、高らかに掲げているモノに対してそこだけぽっかり穴があいているような感覚でやっぱりいつかジブンでそれをふさがないことには先に進めない。ずうっと前に筑紫哲也サンが、クジラ問題に対してはニッポンは堂々と他国に対して主張をすべきであるが、その上で、その批判に応じるのではなくクジラ捕獲はいずれ自主的にやめるべきだと言っていた。まったくそういうこと。ブンカの違いを理解したうえで妥協し合っていくことが重要なのだ。
妥協し合わない相手にはどうすればいいか、それはあまりに日常的で面倒な問題だ。少なくともヨソの国に土足で入ってきて、そこのさわってはいけない痛いところを暴きだして何かを告発している気になっている映画を進んで見ることはない。

『Julie & Julia』

2010-02-19 13:37:57 | 映画
ハノイは寒い。正月明けで会社は再開したものの世間的には今週一杯休みのようだ。カフェも8割方閉まったまま。オフィスの中も寒い。みんなダウンジャケットを着てシゴトをしている。パソコンとサーバーから出る熱だけが暖房、みたいな。きのうは家でパーティーがあるからとか言ってみんな午前中で帰った。コッチの習慣なら仕方ない。来年からはもっと長く休みにしよう。
で、きのうの夜は家には暖房はないし体を温めるバスタブもないし、ワイシャツの上にユニクロのフリースを2枚重ねてきて靴下はいて布団にくるまって、オリンピックのテレビもないのでパソコンで映画を見た。メリル・ストリーブの料理モノ。最近もパン屋の話をやっていたし、このところ料理オバサンづいている。

6~70年前と今のふたつの実話にもとづくオンナの人二人の話。6~70年前のほうはフランス料理をアメリカに伝えた有名な料理研究家であるジュリアさんのことでメリルおばさんが演じている。もともと背が高いうえに最近かなり肥えたから、それで料理作って食べるんだから説得力ある。で、そのオバさんが残した500いくつかのレシピを1年間作り続けてブログに載せてケッコウ話題になってマスコミで取り上げられた、みたいなはなしの主人公がジュリーさん。逆かもしれない。ブログが映画になるか?って気もするがこれも実話らしい。夫婦の間のいろんなこともブログに書かれて、書かれるほうはいい迷惑なのはよくある話。

料理のおもしろさがメインの話かというとそうでもなく、それをメディアに乗せていってオンナの人がジブンを表現していくみたいなことのほうが主題になっている。話としては中途半端な印象がぬぐえない。オトコとの間に決定的なキレツが生じるとか、社会と対立して孤立するとかそういう暗い部分がない。メリルおばさんのかなり誇張されたノー天気な演技もあってホンワカムードの中で最後はめでたしめでたしみたいに終わる。それだけか、みたいな。商業主義が徹底しすぎたアメリカ映画の限界だ。

ぺネロぺ・クルスちゃんの「ボルベール/帰郷」も料理映画といえば料理映画だがクルスちゃんがレストランで一生懸命料理を作るキッチンの冷蔵庫にはジブンが殺したダンナの死体が入っていたし、料理映画の傑作「バベットの晩餐会」では主人公のオンナの暗い過去が重要な意味を持っていた。そういう現実を超えた異常な状況のなかにニンゲンの本当の姿を見る、みたいなことが映画のひとつのおもしろさだと思うのだが、ブログが有名になって普通のOLが自己ジツゲンしました、みたいな話は夢のような話に聞こえはするが実際はあまりにありふれた現実のように思える。
映画のはじめにニューヨークの9.11の現場が映し出されるが、アレがどういう意味だったのか、OLのシゴトがその再開発会社の苦情受付係という設定の説明だけだったのかもしれないが、そこにあるべき深い意味がいくら考えても理解できない。

2009年、アメリカ映画。

『Los Abrazos Rotos/抱擁のかけら』

2010-02-13 19:49:18 | 映画
おとといの朝にハノイを出て今回は香港経由でニッポンへ。旧正月でハノイも香港もかなり混んでいた。ケルンやリオのカーニバルも始まってどれもlunar new yearを祝うものだったのかと。香港は25年振り。この前は初めての海外旅行で、南回りで30時間かけてロンドンに行く途中に最初の乗り換えで降りて以来。ちなみのその時はそのあとインドのカルカッタかデリーで給油してそのあと中東のどこかで降りて時間調整をしてからやっとのことでロンドンに着いた。まるできのうのことのようだ。

で、ニッポンに着いたらミゾレが降っていてスーツケースの中からオーバーを出さずに家まで帰ってきたらくしゃみが3回続けて出たので風邪かと思ったが一晩経ってコレは花粉だと気づいた。鼻のアナの内側がかゆい。コレは1年振りなのに忘れていた。
でもってわずか4日間の休暇の初日はぺネロぺ・クルスちゃん主演、ぺドロ・アルモドバル監督の最新作。相変わらずヘンな邦題でちょっとヒケた。

話は一世をフウビした映画監督が事故で目が見えなくなって、目が見えないなりにも過去の栄光を振り返って余生を過ごしている。そこに死んだ父親への恨みを晴らすために映画を作ってくれと言ってゲイの男がやってくる。そこにはその映画監督の昔の忘れられないオンナの記憶を呼び起こすタクラミがあって、、昔の話と今の話が複雑に交わりながら進んでいてかなりわかりにくい話ではあった。最後の結末もハッキリいって一つの断定的な解釈を拒絶するような見せ方で、結論的には映画監督であるジブンの苦しみを訴えているような。映画は最後まで作らなければいけない、みたいな、、それがいろんなことを暗示しているのは明らかだとは思ったが。

相変わらず映像が特徴的で、特に砂浜のシーンで風が強く吹いているところとソファーでナニかしているところでおK2がシロナガスクジラの回遊のように見え隠れするところが美しかった。クルスちゃんはハナヂも出ないくらいハゲしくて完全にノックアウト。あそこまでヤルとは、、。

2010.2.12 川崎チネチッタにて。

『Food, Inc.』

2010-01-18 00:30:23 | 映画
忙しくしているあいだにウッディ・アレン特集は終わってしまい今日はコレ。毎日食べている食べモノは危ないモノだという、知らぬがホトケだった世界を暴きだしたような映画。アメリカ映画だからそうとう割り引いて見ないと、コレがすべて正しいなんてことはあり得ない。映画一本でノーベル平和賞までもらったアノ大統領なりソコねの人の環境問題告発モノもそうだが、モノの見方が限定的かつ断定的で一歩間違えば海賊のシーシェパードだかジョーンシェパードだかと一緒のようなところもある。それがドキュメンタリーのむずかしいところで、単なるジコ顕示欲丸出しの宣伝映画にならないためにどう踏みとどまっているかが見どころと言えば見どころ。

内容的には遺伝子組み換え食品の安全性について疑問を呈しているのが中心にあって、それがブッシュ政権の裏金政治によって肯定され助長されてきたこと。つまり大食品産業との癒着とかそれを見逃す専門機関とか、まあアメリカ社会全体がテロとの戦い、とか言って無意味で無駄な仕返し合戦に熱中していたすきにどんどんゆがんで悪がはびこった、みたいなことがあって、その一例として食の世界ではもうこんなところまで来ているということを言っている映画。
そのへんを客観的にいえばいいところをやたらショッキングな映像とか子どもが食べモノが原因で死んだ母親が出てきて涙ながらに訴える映像とかでいかにも誇張している。そういう大袈裟さが見るモノを疑わせる。

結局、アメリカだけの話ならそれはそれでしっかりやれば、って見ていればいいが、アメリカから世界中にそういうモンダイが出回っていて、それぞれのクニにもいろんな癒着とか目に見えないチカラが働いて覆い隠されたり誇張されたり。わかりにくさが増幅されるだけで世の中、ホントのことなんてわからない。
そういう世の中の複雑さを深めているのがこういう映画も含めたマスコミで、話が変わるがあのシーシェパードのことなんか、世界の大半がニッポンが悪者だと受け取っている。結局はメディアを支配したモノが勝ちという世界。

さらに話は変わるが今の検察と政権党との闘いも、そもそもは道で拾った100円玉くらいのものを届けたか届けなかったくらいの問題であるのに、深いところで表には見えない癒着があって、連日検察の裏口からリークされた情報が、それもまたいろんな癒着の中で生き延びてきたマスコミによってタレ流される。検察が政権を抑え込んでいったいどうしようと言うのか、その先がむしろ問題で、隣のカンコクと同じで結局は検察・警察が一番強いということになってしまったらニッポンは本当の暗黒シャカイで、こんな食品のコトなんか誰も何も言わなくなる、黙っているのが一番の世界になるんじゃないかと。

情報とはジブンの目で見たモノ以外は結局は誰かの価値基準で加工されたものだから、正しい情報、といういい方もヘンだが、それでも仮にそういうモノがあったとして、それをいかに選別して正しく世界を組み立てていくか、そういう練習のためにはこういう偏ったものを見るのもいいかもしれない。決して悪質なモノではなかった。

2008年、アメリカ映画。

『ブロードウェイのダニーローズ』

2009-12-29 08:14:41 | 映画
Hanoi Cinematequeのウッディ・アレン特集は年代順に1月半ばまで続く予定で、きのう、シゴトのストレスメーターが一瞬ふり切れたこともありリセットのために夜に行ってきた。1984年の作品でいちばんイイ頃のモノ。この前見た傑作「Zelig/カメレオンマン」のあとで、「The Purple Rose of Cairo/カイロの紫のバラ」、「Hannnah and Her Sisters/ハンナとその姉妹」、「Radio Days/ラジオ・デイズ」の前。

話しは売れない芸人のマネージャーみたいなのをやっているダニー=アレンのことを、むかし、ダニーの世話になった芸人達がニューヨークの町の中のヒナビタ食堂で夜な夜な集まって話題に花を咲かせる、みたいな作りになっていて、そのむかし話が映像の中で現実として描かれて、最後にはその食堂の前でダニーがそのむかし話の中のもう一人の主人公である売れてダニーのもとを離れて行った芸人の別れたオンナ=ミア・ファーローとココロとココロがつながり合う、みたいな実にいい話だ。ハッキリ言ってヨカッタ。別にハッキリ言うほどのことでもないが。。

ウッディ・アレンの作品をこうやって見て行くと監督、脚本家としては天才、巨匠、御宅のイキに達していると思う。ジブンの書いたモノをほかに演じられる役者がいなかったからジブンで出て、しかも相手はいつもミア・ファーロー。ニッポンで思いつくのは伊丹サンくらい。アノ人は自分では出ていなかったが。
内容がコメディっぽいモノに集中していることもあって軽くみられるところもあるが映画のおもしろさをキワメている。今回のもあえてモノクロでニューヨークの裏町の、そこのなんというか襞のようなところの影だけを画面に映し出して、ソコが実際はキレイな色で光に照らされている感じを想像の中で見せている。
時間を飛び越えて、現実と記憶の間を行ったり来たりするのも、ソレがすべて作り話だということを忘れさせるくらいにウマい。

原題は"Broadway Danny Rose"。そのまんま。

ところで、ワタシもいつも見ているコレにコンナのがのっていた。自己責任という概念が歪められているニッポンではいい加減ということの代名詞のようにも言われるが、ソレは結局使う側の問題だということで、コノ主張には大いに共感する。

『Zelig』

2009-12-20 22:38:33 | 映画
連日の映画。今日はコレ。ニッポンでのタイトルはなんと『カメレオンマン』。アリ得ね。映画の中でカメレオンという言葉は出てくるが、ソレをタイトルに使っちゃ身も蓋もない。

1930年頃のアメリカで起きた話を、今、その当時の関係者とかいろんな有名人が出てきてインタビューで振り返るという設定で、ソール・べローとかスーザン・ソンタグとかが真面目な顔してインタビューに答えているので多少は現実にあったことなのかと錯覚するが全部ウソ。つくり話。
Zelig=ウディ・アレンはカメレオンのように周りに合わせて自分の顔とかカラダを変える病気?を持っていて、黒人に囲まれると顔が黒くなって黒人になるし、肥満の男に囲まれると急に腹が出てきて肥満になる、、みたいに。で、世間で有名になってカメレオンの名前でアイドルのように追い回される。
それを精神科の医師=ミア・ファーローが治療しようとするとすぐにジブンも精神科の医師に変身して治療にならない。そうこうするうちにいろんな事件が起きていったんは姿を消すがローマ法王の演説、じゃなくてなんていうんだっけ、バチカンの寺院のバルコニーで話しするアレ、アレの最中に法王の後ろでなんかしているのが写されたり、ヒトラーの演説の後ろにもいたりして、、それをソール・ベローやスーザン・ソンタグがインタビューで振り返ったりするわけだから、それも法王やヒトラーの場面だけじゃなくはじめから最後まで30年代の古い映像風にカンペキに作り上げて、ウソとわかっていながらそっちのほうへ引き込まれていく、コレは公開された当時はキワモノすぎてほとんど話題にならなかったように思うがもしかしたらスゴイ傑作なんじゃないかと思いマシタ。

終わってからアレはいったい何を言いたかったんだろうと振り返っても、そんなことどうでもいいやと思わせるくらいよくできていた。実際何も主義主張などなく作っていたとしたら、いやたぶん、ウディ・アレンというひとは主義主張を出さないことを主義主張としていたのではないかと、、ハリウッドを嫌っていたりするように見せているけれどもあれも別になんの主義主張でもないと思えば何かがわかったような気になる。楽しけりゃいいというのがいちばん難しいのは誰もがいうことではあるが。

1983年、アメリカ。

『Manhattan』

2009-12-19 22:55:52 | 映画
コレもまた久々のハノイ・シネマテーク。ワタシがこういうブンカ的なモノに目覚め始めた頃の作品。
ウッディ・アレンの映画は自分で脚本書いて監督までしていると思うとときどきハラが立つような内容だったりして、たとえばコレなんかも若いヘミングウェイの孫と一緒にお布団の中に入ったりして、17歳のオジョーちゃんとヒトのオンナとのふたまたかけてどっちにも逃げられる46歳のオトコという設定も、そりゃそれでいいじゃん、としか思えない。

とはいえ映画の始まりが"Rhapsody in Blue"できのうのコンサートの続きかと錯覚した、というほどでもないが、こういう偶然は珍しい。昔、東京湾の浅瀬に逆噴射して突っ込んだ飛行機に乗っていたヒトが、翌日ニュージャパンの火事に遭って二度とも奇跡的に助かったことがあったが、ああいう偶然に近い。近くないか。。
映画はマンハッタンの日常を白黒の画像で追いかけるみたいな作り方で、その中でオトコとオンナがくっついたり離れたりする、話としてはどうでもいいような内容。ひたすら登場人物の会話の裏にある感情の起伏のようなものをカメラのアングルのおもしろさというか、絵画的な手法で切り取ってテンポよくつなぎ合わせている。技術的にはかなり高度なモノだと思いマシタ。

出演者の中では30歳の時のメリル・ストリープがカラダが全部水じゃないかというくらいみずみずしかった。犬で言えばアフガン犬みたいな感じ。同じ年にクレーマー・クレーマーにでていてそっちでアカデミー賞をとっている。
といっても字幕もない早口英語だけだったので家に帰ってあらすじを読んだら、ああこういうことだったのか的な部分がケッコウあった。レズとはまったくわからなかったし。
ニューヨークは夕暮れの遠景がきれい。ラプソディー・イン・ブルーのブルーは町のスカイラインが青く陰って行く情景のことなんだろうが、それを白黒で見せようとする発想にはヤラレタと思いマシタ。

1979年、アメリカ映画。

『Michael Jackson's This Is It』

2009-11-16 00:58:33 | 映画
全世界同時公開とか言ってもキョウサン主義国家のベトナムじゃやってないだろうと思ってあきらめていたらところがドッコイ、ケッコウたくさんの映画館でやっているのをきのうの夜に発見して、今日は昼からホーチミンシティに出張だったのでさっそく晩ご飯のあとにこっちの映画館に見に行こうと決めた。
でもホテルのフロントのオネーさんにマイケルの映画どこでやってるかオシエテ、って聞いても、マイケルって誰や、みたいな反応で、結局ネットで調べて行ったのはGalaxy Cinema。4つくらいのスクリーンがあるシネコンで500席くらいの大きなホールでコレをやっていまシタ。客の入りは3~4割。キョウサン主義だからしかたないと言えばしかたない。

それでもやっぱりスゴイ、というか同じ年でよく動くなあというのがソッチョクな感想。ってそれだけか、みたいな。
ダンスと歌をあんな風に見せたのも、あの独特のステップや手首をぶらぶらさせるのも、しゃっくりかと思わせるような声の出し方とか裏声で歌えキミガヨ、みたいな高音の流すような歌い方も、それにコンサートの細部にまで魂を込めるように作り上げていったのも全部マイケルがこの世で最初に成し遂げたことだ。
リハーサルの映像でも十分完成されたパフォーマンスに見えたが、これが実際にコンサートで切れ目なく繰り広げられたら、それこそKing of Popの名前をキョウサン主義の国々にまで広めたであろうに、、せめて1回でもコンサートを終えたあとに、、とか言ったら大いなるヒンシュクだろうか。

監督はコンサートのディレクターでもあったケニー・オルテガ。バックコーラスやダンサーのひとりひとりまでもがマイケルに陶酔しているのをよくとらえている。
ベトナムじゃ12/3までやってるようなのでできればもう一度行ってみたいキモチ。

『The Letter / 月光の女』

2009-11-15 00:31:56 | 映画
邦題と原題のギャップがココまであるとなんとなく許せるからフシギ。先週から始まったハノイシネマテークでのウィリアム・ワイラー監督特集の今日はコレ。1940年の作品で原作はサマセット・モームで主演はベティー・デイビス。一応知ってる名前が2つあって、しかもNew York TimesじゃDVDの評価が5つ星だから期待して見に行った。

月明かりの下で男がゴム農園(男の持ち物)の小屋から出てくる。あとからよろけながらオンナ(ベティ)が出てきて男を拳銃で撃つ。何回も。オンナは男が襲いかかってきたから撃った、みたいなことを言う。オンナの夫は裁判に向けて有能な弁護士を雇うがそこにオンナと死んだ男がデキていたという内容の手紙が夫のところに送られてきて夫はオンナに問いただす。
はい、デキていました。。オンナは答える。それでも夫はオンナの弁護士をやめさせずに裁判を続ける。夫はオンナに今でもオレをアイしているかと聞く。ええ、アイシテいるわ、と一度はオンナは答えるが、すぐにジブンは今でもジブンが撃った男のことをアイしていると言って泣き崩れる。複雑なニンゲン関係。
オンナはジブンの居場所をなくして月夜の下に出て行く。そこでオンナはゴム農園主の妻に刺されてコロされる。空では月が雲の間に入ってオンナのカラダに影を落とす。やれやれ。

月明かりの下のゴム農園っていうところがシブい設定だ。小屋の中で何が行われていたのか、ナニか。それは十分想像できるが、じゃあいったいなんでオンナは拳銃で男を撃ったのか。月が明るすぎたから、、みたいな。話としてはよくわからない内容だ。
ベティー・デイビスは美人なんだがおでこに3本線でしわが寄るのが気になった。キモチが揺らぐと編み物をする。でも老眼じゃあるまいし、いちいちメガネをかけるのが変というか、抑揚ありすぎの音楽と一緒で感情表現が単調に思えた。

で、このウィリアム・ワイラー監督は「ローマの休日」とか「ベン・ハー」とか「ファニーガール」とか「大いなる西部」とか「おしゃれ泥棒」とか、、有名な作品がたくさんあって、今でいうスピルバーグのような人。革新的な撮影法と膨大な予算をつぎ込むスペクタクルな手法で時代を切り開いた。
ワタシ的にはずいぶん昔、10代の前半にテレビで「コレクター」を見て、その時は監督が誰かなんて気にもしていなかったが、オンナのヒトを地下室に閉じ込めてチョウチョのようにコレクションしていく異常な男に、なんというか、誤解をおそれずに書けば興味を持ったわけで、、いや、もっと正直に書けば共感を覚えてしまったわけだが、結局、ワタシの場合、甲虫とか、カニの看板の写真とか、芝居のDVDとか、ホテルの無料の水にかかっている紙の札とか、、駅のホームの立ち食いそばの写真とか、曲がり道とか、、いろいろコレクションしているモノはあるが、生身のオンナの人とか、そこまで重たいモノはまだ集め始めていない。

091114、Hanoi Cinematequeにて。1940年、アメリカ映画。

『tokyo sonata』

2009-11-02 00:53:21 | 映画
今週のHanoi Cinematequeはアジア映画特集で、ニッポンからはコレが出ている。ハノイでニッポン映画が上映されるのは珍しいのでニッポン人がおおぜい来ているかと思ったらワタシ一人。あとはオウベイかよ、みたいな。ニッポン人代表として、カレ等とは別のところで笑ってやるぞと、ややチカラが入った。
ただストーリーがあまりに異様というか、悲惨な話をおもしろおかしく見せようというのはわかるが、これでもかこれでもかっていうくらい、最後のほうはあり得ない展開で、しまいにはもう好きなようにして、って言いたくなるようなはなし。いくつかの批評でアトアジが悪いって書いてあったのはこういうことか、と。ただそれほどでもなかった。

作者の言いたいのは権威の失墜みたいなことが、もともと権威なんてないんじゃないの、みたいなことで、学校のセンセとか父親とか、権威だけで生きてるようなヒト達がそこから権威を奪ったらただみっともない笑いモノにすぎない、みたいなことか。学校のセンセは電車の中でエロマンガを読んでるところを生徒に見られて権威を失うし、父親は会社でリストラされて毎日炊き出しに並んでやっと掃除のシゴトを見つけて、そこを家族に見られてひたすら逃げまくる。
で、話としてはそうやってぼろぼろになってもう一度はじめからやり直したいとココロの底から思ったら、ホントに初めからやり直すみたいに、一度死んで生き返って崩壊した家族が再生する。
うんざりするようなあり得ない展開なんだが、こうやって外国でガイジンとして見ているとコレがニッポン的なココロ温まる話なんだとミョーに納得できたりして。。

欧米ジンはこういうのを見て、ニッポンってホントにわからないって思うに違いない。ワタシが見てもありえない話。それを役所広司とかキョンキョンとか香川テルユキとかがすっとぼけて演じている。
みんなもう一度やり直したいと繰り返し言う。ニッポン人はみんなもう一度初めからやり直したいと思っている。そういうふうにガイジンには受け取られたと思う。

2008年、ニッポン映画。クロサワ・キヨシ監督。