老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

しぐれて山をまた山を知らない山

2016-10-31 15:10:16 | 俳句
  

上記の句は山頭火の作である。
小豆島の滞在を終わり、四国に来て今日も歩く讃岐路で見た山。八十八ケ所の結願寺へ行く途中の遍路道で詠んだ句らしい。

今日は、高松市内の土手道の散策をしていて、屋島と八栗山が同時に美しく見えているのを見つけた。
近在の者にとって、屋島も八栗山も信仰の山としてあがめている。
左が屋島。源平合戦の地でも知られる。溶岩台地がテーブル状になっていて特徴のある山の形である。
右の奧には、頂上が剣のように鋭い峰に別れていることから五剣山、別名八栗さんと親しく呼ばれている山が見える。
八栗山は仏さまが寝ている姿に見えることから、毎朝八栗山に手を合わして拝む信心の人もたくさんいる。
屋島の頂上には八十四番札所屋島寺、八栗山には八十五番札所八栗寺がある。
ちゃんとした名前を持つ二つの山。誰が見ても、讃岐人にはことに親しい山である。

秋の時雨の中を歩いている 山頭火 の姿が丁度今のころ。さびしげな姿が彷彿とする句である。一つ山を越えれど又名も無い山が立ちはだかる。今夜はどこで泊めてもらおうかなどと思いつ足を運ぶ。

> しぐれて道しるべその字が読めない
> そのかみのおもいでの海は濁りて    
同時に発表の句らしい。(壇ノ浦)と記しているが屋島の合戦のダンノウラは木偏で(檀ノ浦)と書く。山口と香川のダンノウラはダンの字で区別をしている。
この句は結願寺の大窪寺へ行く途中だとすると、香川の檀浦だと、前後の句から想像ができる。
どっちでもいいか? 山頭火 研究者でもないから。
しかし淋しい句が続く。
> かうして旅する日日の木の葉ふるふる
> 泊めてくれない折りからの月が行く手に(廿六日夜)

     

土手を降りた河川敷には桜紅葉が散っていた。


      🍒    三門の黒々釣瓶落としかな

      🍒    紅葉山絵地図に烏天狗かな
コメント
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