老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

KOSI から (2)

2015-11-17 09:37:55 | 俳句

        ☆   ラグビーのダイブに地球やはらかし    長谷川櫂

        ☆   コスモスの花にきのふはなかりけり     長谷川櫂

なぜ、私が、古志のページを開けば、何時でも読めることをブログに書くかって?
ここに書いておれば、いつでもパソコンを開けると読めるから。
最近ブログを書くことに、疑問を抱き始めたから、開くと何かが得られること、新しい教示に出合えるかも知れないから。       

「あふれるもの」を
これを読んだ時、深い感銘を受けた。

俳句という小さい誌型を直径三〇センチの円とすれば、ほとんどの人の俳句はこの円よりはるかに小さい。円周との間にガバガバとすき間が空いてしまう。そこで、多くの人はそのすき間を埋めようとする。これを世間では俳句を学ぶといい、それができたとき、上達したと勘違いするのである。
しかしながら、そのようにして円をどうにか埋めたは俳句のどこがおもしろいなか。なかには最初から円ぴったりの俳句ができる人がいて、そういう人を世間では俳句がうまいと一目置いたりするのだが、円にぴったり収まった俳句のいやらしさはたとえようもない。
そのような人はどうすれば、三〇センチの円にぴったりの俳句ができるか、コツを心得ているわけで、いいかえればコツで俳句を作っている。いま「いやらしさ」といったのはこのことである。
そうではなく、ほんとうにいい句を作る人はどうすればいい句ができるかなど知らない。
自分のいいたいことが何なのか、その全容など見えていないのであって、いろいろ悪戦苦闘しているうちにまれにいい句ができる。
したがって、そういう人は決して俳句がうまいようの見えないどころか、ふだんはとても下手に見える。しかし、ときどき、うまいといわれている人が一生かかってもできない句ができるのだ。
心がけるべきことは、三〇センチの円ぴったりのうまい句を作ろうとすることではない。三〇センチの円からあふれるほどの思いをもって作ることである。そうすれば、円は破れ、句は破綻してしまうだろうが、この犠牲を払ってもなお余りあるものを得るだろう。

書き写しながら、私の悩みにも思いあたる。素直に初心にかえればいいのだ。
試験の勉強をしているようで、頭の中に言葉が沁み込んできた。




散歩の途中で拾ったドングリの帽子で、小さな細工物を作った。
ほんとうに久しぶりだ、手芸台の前に座るのは。
ブローチになる。鞄のファスナーの持ち手に吊るしたり色々、使いみちがある。



ドングリの帽子と、少しの布の切れ端があれば、五分で一個ば仕上がる。


       谿紅葉真昼も暗き径下る   葉


四、五日前の、大阪箕面の紅葉狩りでの一句。
















コメント
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