武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

065. 水と水道と水汲場 -Água, água encanada e chafariz-

2018-11-26 | 独言(ひとりごと)

 今年の日本列島どうしたことか、やたら地震が多発している。
 その度、ポルトガルテレビのニュースでも取りあげられるが、同時にアメリカと中国で洪水。さらにヨーロッパではウクライナ、ルーマニアそれに南ドイツでも洪水、と書いている矢先、日本でも梅雨が明けたばかりなのに大雨。六甲山の麓の川や金沢でも鉄砲水の被害。逆にアフリカやオーストラリアは慢性的な干ばつ。
 地球はどうなってしまっているのか考えている暇もないほど次から次だ。
 ポルトガルではここ数年、猛暑により、毎夏、山火事が多発していたのが、昨年、今年も今のところほとんどなくて、ひとまずほっとしている。でもギリシャで山火事。

 災害が起って最初に困るのが、ライフライン。
 水、電気、ガス、電話それに道路網。
 洪水で水が溢れても生活用水は別。断水が起る。

 断水といえば我が家もほとんど毎日何度か断水になる。
 断水といってもそれはほんの僅かな時間。5分からせいぜい長くても30分もすれば必ず出だすから心配はしていない。
 我が家は4階建てビルの4階だから皆が一斉に使えば水圧の関係で上まで上ってこないため。
 それはお隣さんも同じらしい。
 建物が古いため水圧が弱いとのこと。

 断水になれば全自動洗濯機は自動的に中断するし、食器洗いや野菜洗いの途中だと別の仕事をして後回しにすれば良い。
 洗剤で泡だらけの手の処理が少々困るが…
 たまに歯を磨いている途中で断水になることもあるがそれも困る。
 我が家では毎日、5リッターのペットボトル12本分の水を溜め置きしているので、その中からそれを使う。
 それ以外は出始めるのを待つだけだからほとんど溜め置きの水を使うこともない。

 断水といってもそんな感じだから断水とは言えないのかも知れないが、以前にはもっと本格的な断水がたびたびあった。

 我が家のすぐ裏というか、南向きのベランダのすぐ下、見下ろす位置に市の水道タンクがある。
 セトゥーバル市の家庭用水道の半分を担っている。
 コンクリートの建造物で直径40メートルほどの円形。少し斜面になったところにあるので、低いところで高さ3メートルほど、高いところは1メートルばかりの平らなタンク。
 格好の広さで、以前にはそこに少年たちが上ってサッカーに興じていた。
 周りの空き地は犬を連れた近所の人たちの散歩コースにもなっていたのだが、それが例の9,11以来テロを警戒してタンクの回りはフェンスで囲まれてしまった。
 アメリカで当時心配されたようにそこに毒物が放り込まれれば大惨事が起る。

 そのタンクに機械室の様な小屋が付属していて、僅かばかりモーターの音が聞こえる。
 それが止ってしまうと街じゅうが断水ということになる。
 以前にはそれがたびたび止まった。モーターが老朽化していたとのことだ。

 近隣市の消防署の30トンもの大型給水車が十数台も応援に駆けつけたこともあった。
 僕も5リッターペットボトル4本を持って行列に並んだ。
 一度などは3~4日もの断水で、街じゅうのスーパーのペットボトル入り水売り場は空っぽになった。
 僕たちは売れ残っていたガス入りの水、1,5リッター入り2本を仕方なく買って帰ったことがある。

 埒(らち)があかないのでレンタカーをして旅に出た。
 あの頃はクルマがなかったから仕方がないが、クルマのある家では街なかのあちこちにある昔ながらの水汲場で汲めば良い。
 もちろん歩いて行ける場所にそれがあればもっと良い。

 水汲場は昔のムーア人の知恵、標高差を利用しての設計で1日中ちょろちょろ水が流れ出る仕組みになっている。
 これを考え出した人も偉いが、作った社会や政治機構は素晴らしく、余程成熟した社会だったのだろうと想像できる。

 街なかだけに限らず郊外にもところどころに水汲場がある。
 評判の水汲場にはトランクにポリタンクをいっぱい積んだクルマが行列していたりする。
 コーヒーなどをいれる場合、市水道の水を使うより美味しい。それにただ(無料)だ。

 セトゥーバルからパルメラの丘を越えてモイタの露店市に向う途中、丘を下りたところでラゴイーニャという村を通る。
 何の変哲もない村だが、どっしりとした粘りのある旨いパンが評判で、その名が知れわたっている。
 その隣村で「オーリョス・デ・アグア」という村がある。

 オーリョス・デ・アグアとは泉という意味。
 直訳するとオーリョスは目、アグアは水。「水の目」だ。
 何だか水木しげるの世界を連想してしまうが、意味は美しい泉なのだ。
 泉というぐらいの地名だからよほど良い水が湧き出るらしい。
 道路わきに水汲場があり、タンクを積んだクルマが時々停まる。
 我々も何度かそのオーリョス・デ・アグアの水を汲んで持ち帰った。
 確かにお茶やコーヒーは美味しく出来たような気がする。

 でも我が家は4階。その5リッターのペットボトルを幾つも持ち上げるのは大変。
 それほどまでしなくてもセトゥーバルの水道水もまあまあ旨い。
 アラビダ山の湧き水が原水だからだろう。
 時々の断水はあるものの、蛇口をひねればほとばしり出る水道水がありがたい。

 ソマリアでは30分もかけて汚れた水を汲みに行く小さな少女の姿がテレビに映った。
 家にたどり着けば汲んだ水は途中でこぼれて半分に減っている。
 政治の責任だとは思うが、同じ時代、同じ地球上であまりの格差に言葉を失ってしまう。
VIT

(この文は2008年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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