咸臨丸乗組員子孫の会の方からメールをいただいた。本当ならば、この三連休で牛島に渡って、郡家さんや高橋さんのお墓探しをするはずだったのだが、天候が悪いというので自宅待機となったのだが・・。
いつもおせわになっております。
先日、郡家滝蔵の御子孫2人 どちらも曾孫 とお会いして,楽しい時間をすごしました。
8月末に連絡のあった、牛島出身の鉄砲方水主 郡家滝蔵の子孫、曾孫の郡家滝雄さん(57)と同じく曾孫の 入江紀之さん(65)と、大阪市内でお会いしました。お二人とも私と初対面と思わないくらい、打ち解けてお話しいただき楽しい時間を過ごしました。
郡家滝蔵は、明治35年に、牛島で、亡くなっており、息子の庄太郎は、漁師をしていました。入江紀之さんは、牛島で 爺さんの庄太郎さんや,おばあさんに育てられたそうです。郡家さんたちのおじさんたちは、造船関係者が多く三井造船、大阪造船等に勤めていたそうです。郡家さんは、内装屋さん、入江さんは,機械製作をしている技術屋さんです。
咸臨丸関係の資料は、10数年前に、郡家滝蔵の家を壊しており,そのときの関係者が,あまり意識をしていなかったので,何一つ無いそうです。
50年前の調査の時点で、真木信夫が、咸臨丸と讃岐で郡家滝蔵の家のことを空き家と書いていますので,何らかの調査があったかも解りません。50年前に郡家滝蔵の祭祀をしていた,峠カズエさんの子孫に聴けば解るかも?(峠さんは、幕府の船に乗っていた水主の子孫です)
お二人とも、塩飽に対する郷愁は強く、昔のすばらしい環境を懐かしがっていました。子孫の会の仲間に入っていただけます。 よろしくおねがいします。
それと調査依頼ですが、稲田浦の伴幸吉さんですが、私の記憶が間違っていなければ、20年前まで大阪市大正区で鉄工所を営んでいた、伴さんのご先祖だと思われるのですが?
は、稲田浦(広島で戦前梨を栽培していたところの人で、わたしの父方の大叔父 大熊鉄工の大熊繁太郎の嫁の里の人だと聞いております。本島甲生浦には,大熊姓が何軒もあり、私の母方の大熊(実次郎の家系とは、昔々ご先祖が一緒 だったとおもわれます)と,違いますが、十数年前から広島で生活されていると、大熊繁太郎の 娘から聞いた事があります。このつながりも面白いとおもっています。伴幸吉は、咸臨丸太平洋横断後、その秋に1860(万延元)年7月23日 広島出身の水主たちと鵬翔丸、下田の大浦沖で座礁沈没でなくなりになったかたです。 もし伴さんの消息が解ればありがたいです。
咸臨丸子孫の会 幹事方 藤本増夫
とのことです・・。昨夜もさぬき広島の自治会長さんと、今後のことや、その牛島の・・峠さんと打ち合わせをする段取りを話したばかりのことでした・・。
さて・・来週は神戸に行く予定だし・・・、そうなると・・十月の秋祭りを兼用での牛島わたりになりましょうか・・。
いつもおせわになっております。
先日、郡家滝蔵の御子孫2人 どちらも曾孫 とお会いして,楽しい時間をすごしました。
8月末に連絡のあった、牛島出身の鉄砲方水主 郡家滝蔵の子孫、曾孫の郡家滝雄さん(57)と同じく曾孫の 入江紀之さん(65)と、大阪市内でお会いしました。お二人とも私と初対面と思わないくらい、打ち解けてお話しいただき楽しい時間を過ごしました。
郡家滝蔵は、明治35年に、牛島で、亡くなっており、息子の庄太郎は、漁師をしていました。入江紀之さんは、牛島で 爺さんの庄太郎さんや,おばあさんに育てられたそうです。郡家さんたちのおじさんたちは、造船関係者が多く三井造船、大阪造船等に勤めていたそうです。郡家さんは、内装屋さん、入江さんは,機械製作をしている技術屋さんです。
咸臨丸関係の資料は、10数年前に、郡家滝蔵の家を壊しており,そのときの関係者が,あまり意識をしていなかったので,何一つ無いそうです。
50年前の調査の時点で、真木信夫が、咸臨丸と讃岐で郡家滝蔵の家のことを空き家と書いていますので,何らかの調査があったかも解りません。50年前に郡家滝蔵の祭祀をしていた,峠カズエさんの子孫に聴けば解るかも?(峠さんは、幕府の船に乗っていた水主の子孫です)
お二人とも、塩飽に対する郷愁は強く、昔のすばらしい環境を懐かしがっていました。子孫の会の仲間に入っていただけます。 よろしくおねがいします。
それと調査依頼ですが、稲田浦の伴幸吉さんですが、私の記憶が間違っていなければ、20年前まで大阪市大正区で鉄工所を営んでいた、伴さんのご先祖だと思われるのですが?
は、稲田浦(広島で戦前梨を栽培していたところの人で、わたしの父方の大叔父 大熊鉄工の大熊繁太郎の嫁の里の人だと聞いております。本島甲生浦には,大熊姓が何軒もあり、私の母方の大熊(実次郎の家系とは、昔々ご先祖が一緒 だったとおもわれます)と,違いますが、十数年前から広島で生活されていると、大熊繁太郎の 娘から聞いた事があります。このつながりも面白いとおもっています。伴幸吉は、咸臨丸太平洋横断後、その秋に1860(万延元)年7月23日 広島出身の水主たちと鵬翔丸、下田の大浦沖で座礁沈没でなくなりになったかたです。 もし伴さんの消息が解ればありがたいです。
咸臨丸子孫の会 幹事方 藤本増夫
とのことです・・。昨夜もさぬき広島の自治会長さんと、今後のことや、その牛島の・・峠さんと打ち合わせをする段取りを話したばかりのことでした・・。
さて・・来週は神戸に行く予定だし・・・、そうなると・・十月の秋祭りを兼用での牛島わたりになりましょうか・・。
先日楽しく語らいながら酒を酌み交わした入江紀之です、私は15歳まで牛島で育ちながら母方の先祖、郡家滝蔵が咸臨丸に乗ってアメリカまで行った勇敢な一人だったとは知りませんでした、その後65歳になる今まで知りませんでした、もしも咸臨丸子孫の会が無かったら知らずに生涯を閉じたと思いますし子供たちにも伝達をすることが出来なかったと思います。
父方の先祖は高槻藩の下級武士で少しの書付などがありますので何時の日にか調べてみようと思ってはいましたがそれも出来ず今日に至っています、これを機に先祖のことを考えることが出来た今、咸臨丸子孫の会に感謝しつつ先祖たちの夢と勇気に思いをめぐらし尊敬をしています。
滝蔵さんのお墓をさがしているのですが、わかりません・・。十月に入れば・・牛島にお邪魔したいと思います。あの共同墓地にお墓があると思うのですが・・。
自治会長さんの峠さんにご相談してからおじゃましたいと思っていますのでよろしくです・・。
それがあったせいか、牛島の祖母が何人かに語っていた言葉を思い出しました、曽祖父の郡家滝蔵が書いた日紀を郡家家に訪れた作家に預けましたがその後のことが解かりません、50年以上昔のことなので記憶も正確でありませんがもしご存知の方がおられましたら教えていただきたい、よろしくお願いいたします。・
そのお探しの日記というのは心当たりがありませんし、そのようなものがあったとはどこにも記載がありません。
その作家さんというのが誰だかわかりませんが、その人が持って帰ってしまったのでしょうか。
真木先生に預けたのならば、島のどこかにあるのでしょうが、先生の書いたものにはその日記というのは出てきません・・・。
お役にたてずにすみません。今後もこころにとめておきましょう。
別な掲示版に記載するのは問題があり、ここに記載します。
宗旨は大切でしょう。しかし「戒名に統一すべき・・・・」は僧侶の書き込みとは思えません。そのような考えでありましたら、むしろ生前の俗名で書くことを薦めていただきたい。彼岸と此岸をの区別もつかない人達に「戒名」や「法名」に何の価値があるのだろうか?
そういったものは、徳川幕府の悪政の産物で、本来の仏教とは何の関係もないでしょう。寛永12年から宗教としての仏教の役割は終わっているのだから。