まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

蝋梅の咲いて遍路の見えぬ寺

2022年01月29日 | 時には日々是日

 29日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていた。気温は5.5度から10.4度、湿度は76%から48%、風は1mから4mの西南西の風が少しばかり。明日の30日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇る見込み。

 

 収縮期112mmhg、拡張期57mmhg、脈拍79bpm、体温36.0c/酸素濃度98%/体重65.0Kg 室内気温20.3c/室内湿度29%/気圧1017hPa 体調に変化はない。今日の日の出は07:04分、日の入りは17:30分 月齢は26.4 中潮。

 

 ああ、冬が来たんだなぁと空を見て思った。今日は市立の図書館でも行ってみようかと思っていたが、そういう元気もなくなった。感染症がひどくなっている時期に出掛けるのもなんだと思うと、どこにも行く気がなくなってしまう。

 

 で、お友達から預かった家系図を整理してみた。大筋は見えてきたのだけれど、なんだか複雑な家系のようで、なかなかに系図がはっきりとはしない。

 

 で、それをどういう形で清書をしようかと思案中。

 

 こういうまっすぐな家系ならば簡単なんだけれど、配偶者が二人いたり、兄弟に養子が入り込んで来たりすると、何が何だかわからなくなってしまうし、表記の仕方が難しい。

 

 外も冬なら、おつむの中も「冬でござんす」、さっぱりとはせずに曇ったまんま。おつむの中に北風小僧が立ちはだかる。邪魔だからどいてと言ってもどいては呉れない。

 

 今度は気分転換に「エンディングノート」を出して来た。

 

 エンディングノートは2年前に作ってはあるのだけれど、2年も経てばいろいろと事情も変わっている。病状も変わってきたし、身体の方も変化してきている。ただ、この原稿が行方不明になっていて、これの更新や編集はできなくなってしまった。

 

 だから、新しい様式で作り直そうとしているのだけれど、帯に短し襷に長し・・・で、適当なものが見当たらない。

 

 こんなことが、本当に必要なんだろうか。私の没後に、こんなものを見ても仕方がないじゃないかと思ってしまう。家族に言い残しておきたいこと、書き残しておきたいことは何だろうかと思ってしまう。

 

 いろいろと調べているうちに、こんなバラの花束が見つかった。そうだ、奥方の大好きなバラの花束だ。

 

 これを、ビデオメッセージの最後に、感謝の言葉とともに、このバラの花束を贈ろうと思いついた。で、それを取り込んで張りつけてみた。

 

 今日のお昼は、昨夜のすき焼きの残りを載せた「すき焼きうどん」になった。ただ、私は「牛肉」が食べられないので、牛肉抜きのすき焼きという物は、四番バッターのいない野球チームみたいでおいしくも楽しくもない。

 

 今日の掲示板はこれ。「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」という南山大師(空海)の言葉「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるという。職人に限らず、何かを学ぼうとするときは手本がいる。その手本を真似るのは、その人と同じになれということではない。「伝統とは形骸を継ぐことではなく、その精神を継ぐことである」と言ったのはロダンである。真似ぶ(学ぶ)のは、かたちであってかたちそのものではない。真似たいと思う対象の本質を真似る。その人(もの)が、何を見聞きし、何を考え、何を志し、どういう心持ちでそれを行っていたのか。最初はかたちを真似るところからはじめても、それはいつか、真似しきれない、真似の通用しない巨大な壁にぶつかるはず。そのときが、ほんとうの学びのはじまり。「古人の求めたる所」を求める入り口になる。まずは、ただひたすらに真似てみよう。憧れの人になりきったつもりで。繰り返し、繰り返し、ただひたすらに。数年後、数十年後、想像を超える境地に立っていることに気づくはずだと言うのである。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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