まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

露草もうなだれている午後三時

2021年08月10日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 10日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていた。香川県では、10日は熱中症の危険性が極めて高い気象状況になることが予測されるので、外出はなるべく避け、室内をエアコン等で涼しい環境にして過ごしてください。と呼びかけている。気温は26.3度から34度、湿度は74%から60%、風は4mから1mの西の風が少しばかり。明日の11日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れるけれど、夕方からは気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、雨や雷雨となる所がある見込み。

 

 103/59/78 36.4c-97%-61.8Kg 21.6c-67%-1005hPa 体調にこれという変化はない。

 

 島の家のガラス窓が壊れたというので、島に帰ろうとしたら、「もう、お盆の帰省予約で一杯です」と言われた。だから、明日(8/11)の朝に私だけが乗って帰ろうと計画変更した。だから、お願いしたセキスイさんの関連業者さんたちもお盆明けでないと島には入れそうもないと仰る。最近の情勢やら感染症対策やらを見ていると帰省客なんぞ少ないと思ったのだが、超片田舎だからと大勢が詰めかけるのかも知れない。

 

 朝方、野菜畑を台風の風が荒らしていたので、その片付けをやっていたら、防鳥ネットに玉虫がからみついて死んでいた。こういう虫が、まだ、生きているのか・・・と珍しい来客に驚いた。こういう虫は一年に一回程度は見るような気がするが、そんなに多くは見かけない。

 

 今年は甲子園球場に夏が来た。でも、ここもまた、異例の開会式になったようだし、観客席に人が見えない。入場行進も簡素化されたみたいで少し物足りない感じだった。

 

 甲子園の夏は、高校球児たちだけの夏ではない。入場行進のプラカードを持つ女子高校生がいる。あの子たちもまた、プラカードを持って甲子園球場を踏みしめたいと希望して、その女子高校に入り、プラカードを持って行進する女生徒たち。でも、甲子園に立てるのはわずか49人。その49人に選ばれるための猛特訓を積んできた。栄光の甲子園球場はそういう女子生徒たちでも成り立っている。

 

 この大会歌「栄冠は君に輝く」を歌う合唱団に選ばれるために猛練習を積んできた子たちがいる。入場行進を応援する吹奏楽部に選ばれるために寒い夏も暑い夏も耐えてきた子たちがいる。単に野球が好きな男子高校生たちのためだけの甲子園の夏ではないのだ。それを応援する全国の高校生たちだって彼らを支えている。全国の大勢のOBたちだって彼らを待っている。

 

 それはさておき、今日は県立病院での「抜糸」の日。先月の下旬に、何かの虫に噛まれて出血し、その止血が出来ないからと縫合手術を受けたのはまだ記憶に新しい。今日は、その「抜糸」の日である。

 

 普段はがらーんとした病院なのだが、今日は妙に患者さんが多いし、ここに来るまでの国道だって異様に混んでいた。信号二回待ちというのも何度かあった。お盆前になると、こんなにも人が動くのか・・・。

 

 もう、命を懸けた手術は何度も経験しているし、いろんな手術も受けてきたので、少々のことでは驚かない。だが、男性の急所の「おちんちん」を縫ったり、その抜糸をするというのは珍しいのだという。でも、案外と本人は平気のへいざで「どうにでもしてちょうだい」みたいなものだ。

 

 で、家に帰ったのは12時前。あわてて奥方がそうめんをゆがいてくれた。奥方は働いている介護施設で打撲傷を負ったらしい。公傷になるから診断書を提出せよと休みをもらったが、田舎の医院では、そんな訴訟になるような診断はしたくないと断られたと戻って来た。お互い、年をとると、いろんなことはが起こるものだ。

 

 午後からは、借りていた図書館の本を返却に行ったり、お盆には来客が来ないらしいので注文した生ビールを取り消したり、お料理を中止にしてもらったりとてんやわんや。

 

 世の中は「お盆だ」「お盆だ」とにぎやかだが、我が家はひっそりと、静かにお盆を迎えようとしている。それにしても、「新しい生活様式」では、お盆の姿も形を変えてしまおうとしているのだろうか。

 

 今日の掲示板はこれ。「あるがままに生きる ないがままに生きる」という荒了寛さんのカレンダーの中のことばから。全てのものは、ああしよう、こうしようという主体性をもって生まれて来たわけではなく、「自然に」生まれて来たのである。全ての対象は自分も含めて観察するべき対象というよりも観察されるべき対象と言えるかもしれない。観察できる主体はどこにもない。あると思っているだけである。日本人は自然にまかせて、 あるいは自然と同化してあるがままに生きるということを脈々と実行してきたのではないだろうか。また日本文化に大きな影響を与えた仏教の縁起説では(物事の発生と展開)において、全てのモノに「自性がない」ということがある。そんな難しいことを言わなくても、あるだけの食材で生きる。なければないで、なんとか食べて生きるのである。今の現代に於いては、なかなかに、こういう生き方は難しいのだが、要するに「財布の中身と生き方」とは関係するように思う。財布の中に余裕があれば、「あるがままに生きられる」し、財布の中身がさみしくなれば、「ないがままに生きる」しかない。わが家の今月もまた、「ないがままに生きて行くしかない」のである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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