まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

冬日和 登ってみたい 峰がある

2014年01月06日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、寒気の影響で雲の広がっている所もあった模様。気温は1度から7度、湿度は73%から58%。風は1mから2mの北北西の風が少し。明日の7日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みだが、気圧の谷の影響で、昼過ぎから次第に雲が広がる見込みらしい。

 

 さぁ、今日から平常業務だ、通常業務だと張り切ったものの、たってきやらねばならないこともないのに気づいて・・・さて、今日はどうしようか・・・と考え込んだ。法話のストーリーの構成とか、島案内人養成講座用のマニュアル作成とか、離島センターに送る本の制作とかやらねばならんことはしっかりとあるが、どれもこれも不急のものばかり・・・。

 

 これが香川の主な社寺・観光地の三が日の人出の数。だんとつに「こんぴらさん」への参詣が多い。香川県東部では、与田寺が88,000人、大窪寺が30,000人、田の口薬師が27,000人、白鳥神社が20,000人。やはり与田寺がダントツか・・・。

 

 ということで、まだ、行っていない「大窪寺」を覗いてきた。原則として「阿弥陀さん」以外にはお参りはしないのだが、ここには「阿弥陀堂」があるので、そこだけにはお参りをしてきたのだが・・・。

 

 今年は「四国八十八ヶ所霊場開創千二百年」ということで、ここのご本尊(秘仏)が特別に開帳されるらしい。毎月八日から十二日迄の午前九時から午後三時までなので、十日あたりか十一日に、もう一度、お邪魔して秘仏を見せて頂きたいもの。ここのお薬師如来は「薬壺」ではなくて、とあるものを持っている。それをこの目で見たいものである。

 

 本堂にあるこの本尊名を刻んであるこの看板。なにかが違うことに気が付くかなぁ・・。これ、案外と多くの方が見逃している看板で、説明しないとわからない人が多い。「薬師」の「薬」の字の右の「く」という字が刻まれていない。「く・・・・苦を抜いてある」のである。

 

 本堂で、おあそびの「おみくじ」を引いてみた。たぶん。「吉」は大サービスで入っているのだと思う。で、おまけは「大黒様」。昨年もこれとまったく同じだったような気がする。

 

 大師堂の案内小僧さん・・・毛皮付きのジャンパーを羽織っている。誰かの忘れ物だろうか・・。手製のお地蔵さんのマスコット付きのりまきもかわいい・・・。

 

 大師堂前の便所に立っているこの人は「ウスサマ明王」。文字通り、「トイレの神さま」である。烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。

 

 ということで、今日のお昼は、その門前にある「八十八庵(やそばあん)」というお土産屋さん兼うどん屋さんの一般店。今日はどういう訳だか、スーツ姿のサラリーマンたちが何組も、何組もがお寺にお参りしては、ここでおうどんを食べて帰っている。仕事始めにここに来たんだろうかね。

 

 で、名物の「打ち込みうどん」は一人で食べてもおいしくないし(そんなことはないのだが)、お値段もするので(800円)、今日は「しっぽくうどん」を頂くことにした。500円である。

 

 あっさり系のさっぱり系のしっぽくうどんだった・・・。

 

 先にも云うたように、今年は四国八十八ヶ所霊場開創千二百年記念事業がそれぞれの札所で行われる予定。中には絶対に見られない秘仏の開帳もあるので、お近くのお寺や霊場会で確認しておくといい。この機会を外すともったいない・・とういうような催しもあるそうなので、ぜひとも確認しておくこと。

 

 今日の掲示板はこれ。お友達のお寺にあったもので、「生かさるる いのち尊し けさの春」という中村久子さんの言葉。中村久子さんは、1897年、飛騨の高山で誕生し、三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされた。中村さんは、その障がいの事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障がい者への差別の厳しい、生きていくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として72年の生涯を生き抜かれた。晩年詠まれた「手足なき身にしあれども生かさるる今のいのちはたふとかりけり」に、自己の「身の事実」を機縁として、真実の世界に目覚めていくという、中村さんの心の軌跡が窺える。 春は、全ての「いのち」をはぐくみ、育てる自然の営みの尊さをひとしお輝かせて見せてくれる。中村さんは、その中に生をうけ、生かされている自らに気づかされ、その事実によろこばれたことと思われた。目覚めるたびに今朝も生きているとの確認は、生かされていることの体感であり、実感であったのであろう。その体感が苦難の中を精一杯生きる力となったものと思われる。 「今日のことば(句)」は、新しい春を迎え、あらためて人間の存在の真実を考えさせてくれるものであろう。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。



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