goo blog サービス終了のお知らせ 

まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

ぼんやりを たたき起こして 霜の朝

2015年12月20日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の接近で夕方から雲が広がり、夜遅くには雨の降る所があるらしい。気温は今期最低の2度から11土、湿度は78%から62%、風は2mから3mの南南東の風が少しばかり。明日の21日は、気圧の谷の通過や湿った空気の影響で雲が広がり、朝にかけて雨が降る見込みらしい。

 

 今日は、孫のなぎちゃんのテニスの試合があるというので、またも5時起きの6時20分出発。まだ、あたりは真っ暗・・・。7時に屋島に着いて、そこから、高松市牟礼町にある「牟礼中央公園運動センター」へ。

 

 今朝はそのあたりが白い・・・と思えば、大霜の朝になっていた。

 

 8時前になると、みんな、続々とやってきたので、私はお役目解放。帰りはお母さんがお迎えに来るというので、さぁ、今日はどこに向かって走ろうか・・と、思案して。

 

 それでは、三本松メガネのカワイ店長ブログにあった、「塩江町立安原小学校戸石分校」に行ってみようと考えて、まずは、「柏原渓谷」から入ろうと考えた。

 

 柏原渓谷は綾歌郡綾川町枌所東という山の奥にある。夏場は家族連れで賑わう場所だが、いかんせん、道路幅が狭い。対向車に二度会ったが、しばらくバックしてもらって、ようやく対向できたというヒヤヒヤものの田舎道である。

 

 夏にはいい所だが、冬場はどうにも・・・。山の樹木や電線についた霜が朝日に溶けて、雨のように降ってくる山道をくねくねと進むと・・・。

 

 こういう学校跡が見えてきたが、ここにはフェンスがないから、ここじゃない。でも、まぁ、ついでだからと、ここにも寄ってみた。

 

これは、まさしく学校の跡らしい・・。

 

 跳び箱とか掛け図とかも見える。ここは、「綾上町立枌所(そぎしょ)小学校柏原分校」で、昭和23年に開校し、昭和63年に廃校となった。

 

 手洗い場・・・である。この真ん前に、マウンテンドームというキャンプ施設がある。今の時期には誰もいなかった。あぶない目をしてまでやってきたのに、肝心の「戸石地区」に入る道を見過ごしてしまって、戸石分校にはたどり着けなかった。それじゃ、ダメじゃん、春風亭昇太。

 

  で、お昼からは、ここに行った。東かがわ市引田にある「翼山温泉」である。東かがわ市の温泉施設は、「株式会社創裕」という会社が運営している。そういうこともあってか、ここの料金は400円である。

 

お風呂はこういう感じである。

 

 ここが休憩室で、マッサージ器もあって、今日も肩や背中をマッサージした。ま、気分なおしみたいなものだろうか。

 

 今日の掲示板はこれ。「私たちが命をいただいて存在しているということは、本当に奇跡としか言いようがありません。だとしたら、自分の命が大切であるように、他の人の命も大切にしなくてはいけない」という柳沢桂子さんのことばから。「人間のDNAをいじって、人受戒量をしようなどというようなことは人としての正義に反するし、ましてや戦争などとんでもないことです。私自身、10年以上闘病生活を続けてきて、さまざまな困難を乗り越える中で、奇跡的なこの命の大切さを感じてきました。また、それは病気が私に示してくれた大切な教えなのだとも思っています。」「人間という奇跡を生きる」より。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


あきあかね 島のぐうたら 猫散歩

2015年10月07日 | ふるさと散歩

 丸亀地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は12度から24度、湿度は86%から52%、風は1mから3mの北の風が少しばかり。明日の8日は、引き続き、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 昨夜、しわく広島の自治会長さんから連絡があって、急遽、島に帰ることになった。というのも、奥方のけいこばぁが、屋島の娘んちにお泊りに行くことになった。それならば・・ということで、私も島の家にお泊りすることになったという訳である。

 

 で、朝の8時半に我が家を出て丸亀には10時過ぎに到着。近くのスーパーで食材や飲み物を仕入れて、11時10分の高速艇に乗ることにした。

 

 先週にもこれに乗って島に帰ったばかり。今週は私一人だけでの島の家帰りである。

 

 海上15分、11時半には塩飽広島江の浦港に到着する。丸亀港沖には多くのイイダコ釣りの船が出ていた。

 

 先週に草刈と剪定をしたもので、家の前はさっぱりとしているが、家の裏側や西手側は草ぼうぼうである。明日にでもパワーがあれば片付けておきたいものである。

 

 午後からは自治会長さんとクルージング。イイダコ釣りかと思いきや、向かった先は・・・。

 

 佐柳島・・・。本浦港に船を係留して、徒歩で乗蓮寺に向かったが、町並みはきれいなのだが人影がまったくない。白い猫が十数匹いて、しきりに私たちにつきまとう・・。

 

 これが、佐柳高次さんのお墓。坂本竜馬さんらと行動をともにした人らしい。

 

 こちらは咸臨丸に乗り組んでいて、サンフランシスコで病没した冨造さんのお墓である。合掌お念仏。

 

 この子猫が上陸以来、ずっと、私たちにつきまとってくる。私たちはお菓子どころか何も持ってはいないのだ・・・。それでも執拗につきまとう・・・。

 

 そこから徒歩で長崎地区に向かう。途中にある佐柳小中学校跡。木造の校舎が小学校らしい。右の鉄筋コンクリート建ての校舎が中学校だろうか。

 

 校舎には鍵がかかっておらず、内部を見学できる。ここは前と後ろに黒板がある。複式学級ということで、前は6年生、後ろは5年生が使うとかとしていたらしい。最近、ここを訪問した人が思い出らしきものを書き記してあった。

 

 静の本浦地区とは対照的に、長崎地区にはこんなものがたくさんある。漁師さんが使う浮き用のブイである。これにさまざまな顔を書いてある。お隣の粟島では、これをのこぎりで切ってさまざまな人形を作っているが、こちらはペンキで顔を描いてある。

 

 最終目的地はここ。「佐柳の埋め墓」、両墓制の埋め墓群である。でも、さすがに、最近では、ここに埋葬することはしなくなったと聞いた。ここには十数人のお年寄りが集まって、にぎやかに談笑しているのが印象的だった。

 

 で、島の各地で見かけたこの看板。最近、イノシシが急増していて、暗くなってからは危なくて外に出かけられないのだとか。で、すでに何頭も捕獲処理されたそうだし、ワナも山中にたくさん仕掛けられているとのことだった。島の人の話では相当、繁殖しているとのことだった。

 

  16時半に佐柳島を出航して、塩飽広島に戻ったのは17時前のことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「苦しみをなげく人あり 苦しみを活かす人あり」というもの。これまた、どこのどなたの言葉かはわからないのだが、過去に起きた不運な出来事は、すでに過ぎてしまった仕方ないことである。それをいつまでも引きずり、 苦しみを背負い続けるか、それとも、それを活かして人のために役立たせるか、その発想には人生のつくられ方がまったく逆になることだろう。大切な一度きり の人生をしっかり見据え、考え、生き方を選択したいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


コスモスに 別の扉を 教えられ

2015年09月28日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は17度から27度、湿度は87%から55%、風は1mから3mの南西の風が少しばかり。明日の29日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 久々に、ガリガリ君アイスを食べたくなるような気温になった。

 

 朝方は、小さな秋を目指して大窪寺に行ってきた。季候が良くなって、お遍路さんの姿も増えてきた。

 

 でも、紅葉はまだまだ・・。

 

 途中の民家でみつけた珍しいお花・・・。なんというお花なんだろうか・・・。

 

 で、復習のつもりで、東かがわ市に出向いて来た。これは、白鳥神社の一の鳥居。その向こうに見える四角い石碑がある。これが、「向山翁砂糖開基碑」というもの。

 

 漢字ばかりでちっとも読めないが、讃岐国の白砂糖づくりに尽力した向山周慶翁の記念碑で、江戸時代の後期、嘉永3年(1850)に建てられたもの。

 

 これは、奄美大島からお遍路に来ていた「当盛喜:讃岐名関良介」のお墓である。この人が奄美大島から持ち出し禁止のサトウキビの苗を持ち出し、向山周慶と協力して白砂糖作りを行った人。

 

 この立派な無縫塔が「向山周慶」のお墓である。

 

 そして、こちらが、向山周慶翁の生誕地に立つ記念碑である。

 

 その生誕地の敷地に建っている文具屋さんに寄ってみた。

 

 11月の町あるき探検隊の時に使う資料を整理するためのクリアーブックである。ここに、資料や写真などを差し挟んで使うものである。

 

 で、こんな風にして使う。

 

 で、明日の講演会用のパワポ(パワーポイント)のスライドの最終調整。明日は4時半起きの5時過ぎわが家出発。モーニングセミナーは朝の6時から・・・。最近は6時過ぎまで寝ているから、明日の朝が心配ではある。

 

 今日は27度を超えていたので、久々にガリガリくんアイスをかじったら、またまた、歯茎が痛くなってしまった。どうにも甘い物には弱いのだ。

 

 今日の掲示板はこれ。「幸せのひとつの扉が閉ざされたら、別の扉が開くもの。でも、私たちは閉じた扉を長いこと見つめていて、その開いた扉が見えないことが多いのです」という、ヘレンケラーさんのことばから。扉が閉まったからと、がっくりと肩を落とし、首をうなだれたまま下を見つめ続けていては、新たに開かれた扉(別のチャンスや希望)に気づくことができないというもの。哀しみや辛さを味わうことは大切だと思ってはいるが、その経験によって優しさや思いやりを学んでいく上では大雪だとも思うのだけれど・・・。でも、いつまでもその感情に浸っているわけにもいかないではないか。いずれ、傷が癒え始めたら、頭を上げて次の扉を探しに立ち上がりたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


見過ごした 昨日の夢の 金木犀

2015年09月27日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっていたが、昼前からは高気圧に覆われて晴れてきた。気温は20度から28度、湿度は94%から62%、風は1mから2mの北の風が少しばかり。明日の28日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしい。

 

 昨日今日と、なんだか蒸し暑い日になった。じっとしていても汗がにじんでくる。ここは、高松市岡本町にある「奈良須池」である。ことでん琴平線・岡本駅の南にひろがる池で、寛文10年(1670)、高松藩御蔵奉行・前田与三兵衛によって築かれたと伝えられる。満濃池、神内池、三谷三郎池に次ぐ大きな池であるということから,奈良須四郎池と呼ばれた。

 

 築造前には,土庄池・上池・下池・よしま池と呼ばれる4個の小さな池があった。工事は困難であったようで,当時の絵図には不成(ナラズ)と記載されていた。奈良須の名も,その事に由来するのかもしれない。

 

 一時期、ここに歌劇場が作られ、花火大会なども行われる観光公園も作られたが、迫る戦争の足音の中で完成には至らず、「ああ、やっぱり、「成らず」じゃったなぁ」と囁かれたらしい。ということで、ここ、真光寺さんの夏参りと秋の永代経にお参りをしてきた。

 

 看板にあったように「おとき進上」ということで、今日のお昼はこれをいただいた。

 

 午後からは、明後日の朝の「モーニング・セミナー」用の取材に出かけてきた。明後日の講演の準備を今日からやるか・・・。ま、九割方はできている材料のスパイス変更というか、味付けを少しばかり替えておきたいかなぁということで。これは、「サトウキビ」。そう、讃岐の砂糖の神さま、向山周慶のお話なのである。

 

 で、やってきたのは、「東かがわ市歴史民俗資料館」である。ここは、旧の「引田(ひけた)町立歴史民俗資料館」であったところ。この町の特産品が、「醤油」・「砂糖」・「塩」だったそうで、そういう資料が少しばかり展示してある。

 

 これが、その「讃岐和三盆糖」の展示である。

 

 この表が欲しかったのである。江戸時代後期、安政年間に、大坂に輸送された砂糖の量のグラフである。圧倒的に讃岐高松藩からの砂糖が多い。阿州というのは阿波の砂糖である。阿波は今も「岡田製糖所」という所が、この製糖技術を伝えている。

 

 こちらは、讃岐国の白下糖(黒砂糖)の生産量の時代別生産量の比較である。22年間で、大きく生産量が伸びていることが理解できる。

 

 で、帰りには、ここに寄ってきた。母のいとこになるパーマ屋さんの趣味工房。毎年、さぬき市の文化祭に、こうしたカカシを作って展示をしているが、今年のテーマは「防災」なんだそうだ。倒れている人を助けようとしている人。

 

 傷ついている人をみんなで助ける「協助」。

 

 避難所などの運営や食事の世話など、に働く「協働」作業。

 

 災害時に、自らの命は自らが守る「自助」。今年もテレビの取材を受けるかしらん・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「葦(あし)と書いてもヨシと読む 勝手に決めるな 人の善し悪し」というもの。葦(よし)は、葦(あし)のアシと読む音が「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善し」に因んでヨシというようになったそうで、「悪し」の気持をもって葦の髄をのぞくともっと良くない結果になるのかも。ただ、ものごとの「音」や「ひびき」などで、勝手に、「あし」だの「よし」だのと変えられてはたまらない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


人待って 月にはぐれる ススキの穂

2015年09月14日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は19度から24度、湿度は84%から51%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の15日は、はじめ高気圧に覆われて晴れているが、気圧の谷や湿った空気の影響で夕方からは雲が広がる見込みなのだとか・・・。

 

 朝から、「迷犬ごん」の脱走騒ぎであっちこっち丁稚。徒歩では見つからずに、車で捜索したら、昨日のおまつりの会場になっていた集会場の脇で寝ていた。ま、よそ様のおうちで迷惑を掛けないで良かったが、どうすれば、あのワイヤーの先のフックを外すんじゃろうか・・。

 

 今週末の法話会の準備もできていないのに、11月のマチ歩きのための準備ばかりが気になっている。で、町内の「みろく自然公園」にやってきた。ここは「奥池」とか「上池」と呼ばれる池だが、なぜか、みんなは「みろく池」と呼んでいる。この池の修復工事の際、「弥勒仏」らしき石仏が出土したので、そう呼ぶらしいが、「みろく池」という池は地形上、存在しない。

 

 その奥池堤防上にある「弥勒池碑」である。この漢文を読もうとしてやってきたのだが、朝日を背中に受けて、全く判別不能・・・。それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭昇太。

 

 一方、こちらは「軒原庄蔵」という人。水の恩人、軒原庄蔵は、文政十一(1828)年七月高田村に生まれる。水不足に困る弥勒池(さぬき市大川町)の貯水増のため、三ッ石山の岩盤をほりぬき、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。

 

 随道工事は、当時田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎などの協力を得て、安政二(1855)年からほり始め、安政四(1857)年11月14日の夜明けに貫通し、長さ百五間の石穴を貫通させる難工事であった。この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格にとりあげられた後、明治二(1869)年満濃池の閘石穴穿鑿工事を命じられ、明治三(1870)年三十間余の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池湖畔の松崎神社に合祀されている。明治二十三年(1890)六十三歳でふる里に没した。

 

 このみろく自然公園内にはさまざまな植物が植えられているが、今の時期にはこれ。リコリス畑である。その一角には真っ赤な彼岸花が・・・。

 

 彼岸花というのはご存じのように、お彼岸頃に咲くから「彼岸花」というのだが、彼岸花にはアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花(しびればな)」などと呼ばれてきて、こどもたちが遊ぶのをやめさせたこともあった。その反面、でんぷんを多く含んでいるため食用可能で、毒は水にさらすと抜けるため、昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうで、田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、飢饉に備えて植えたという説もあり、危険を覚悟してまで口にしなければならなかった昔の苦労がしのばれる。

 

 こんな俳句もある。「まこと お彼岸入の 彼岸花 山頭火」というもの。さぬき市長尾の宗林寺の境内にあったもの。まことに、お彼岸の頃になると出てきて花を開かせる花なのである。

 

 この植物は、春先には葉っぱが伸びて栄養分を球根に貯蔵し、秋になると、このように茎だけが伸びてきて、その先端に花をつける。

 

 午後からはまたもデスクワーク。調べてきた記事をまとめたり、新しい情報を探してみたり・・・。そうそう、11月分と12月分の行事予定も入力しておいた。

 

 まだ、9月の中旬だというのに、11月、12月の行事予定は早いと思うが、月日の流れなんてあっという間なのだ。もうしばらくしたら、来年用の暦とかカレンダーとかを用意しなくてはならなくなる。人生なんてあっという間だ。

 

 時期的に言うと、そろそろと、お彼岸用に自宅の周囲の草刈りやお墓回りの草刈りもやっておかねばならない時期か。明日は納め札の調査と図書館へ本の返却に行く日だな。水曜・木曜と草刈りをすれば、ご法話の準備があれあれあれ・・・になってしまう。

 

 今日の掲示板はこれ。「涼しさや 弥陀成仏のこのかたは」という小林一茶の俳句から。振り返ってみればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「さぶぅなったなぁ」と挨拶を交わすようになった。地球温暖化だ、環境保護だと騒ぐことは簡単だが、もはや文明生活を手中にした限り、私たちがそれを手放すことは容易ではない。いまさら、ろうそくや井戸水の生活には戻れないのは百も承知だ。阿弥陀さんはそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら思惟してくださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださっているのだとも言う。しかしながら、今のごとき念仏なき生活からは一茶の感じた風ほども聞きとることはできないかもしれないなぁと思ったことだった。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


ふるさとの 花はすなおに 酔芙蓉

2015年09月10日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は上空の寒気や湿った空気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。気温は21度から28度、湿度は94%から61%、風は2mから5mの北北西の風が少しばかり。明日の11日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 おかげさまで、このブログも昨日で、記念すべき「3800日」を迎えていた。単純計算で10年と5ヶ月ということになる。平成17年の4月、高松の社宅の片隅からスタートしたこのブログが、一日の休みもなく続けてこられたのも皆さん方の応援のおかげです。本当にありがとうございます。

 

 さて、雨とかで延期になっていた「さぬき市まちあるき探検隊」のリハーサルの日になった。心配された雨も上がって順調にスタートすることができて、まずはさぬき市津田の「津田の松原・琴林公園」から。その手始めは「平山郁夫画伯・写生の位置」から。案外と、皆さんは、落ち着いてこの松林を歩いたことがないらしい。最近は海水浴もプールで済ませることが多くなって、わざわざ、この津田の海水浴場まで来ることはなくなってしまった。

 

 その次は、版画家「棟方志功絶賛の松」である。「おお、兄弟、ここにおったのか」というのが、棟方志功先生の言葉らしい。「こんなものが、ここにあったなんて知らなかった・・・」という人ばっかり・・。そういうことが話題にならなくなって久しくなってしまったのだ。

 

 松原を後にして、次の現場に行こうとして、「でも、ここの神社、何か変わったものがあった筈・・」と、このお姉さんが言い出して・・。「あ、それなら、これですよ。ここの狛犬は「日本オオカミ」なんですよ・・」と言うと、「あ、それそれ!。これは、みんなにお話しなくては・・」と、急遽、ここもコースの中に入れることになった。本当は、「愛犬ポチ」みたいな狛犬なのである。

 

 時間の関係で、本番とは順番を入れ替えて、さぬき市神前(かんざき)にある「神前小学校」にやってきた。ここには、「香川で最初の文化功労者」になった「真嶋正市」先生の資料が展示してあるのを見学させていただくためにやってきたもの。

 

 この先生が、この小学校の卒業生なのである。この先生が「大川中学校:現在の三本松高校」で学んだ頃は、校舎が間に合わず、「勝覚寺」で勉強したことは少し前のこのブログに書いた通り。

http://blog.goo.ne.jp/h-kimm/e/8cd860b96e4e897792dd4f7a025b6394

 

 次にやってきたのが、さぬき市大川町にある「さぬき市歴史民俗資料館」である。ここには、この地区の水の神様とも慕われている「軒原庄蔵」さんを紹介するためである。この人については、このブログで何度も紹介しているが、わが家のすぐ横を通っている水路を経由して、みろく奥池への導水路を作った人である。

 

 で、田面村と富田村との境になる三つ子山の下をくり抜いて「隧道:トンネル」を掘って水を漏らすことなく通水した人である。

 

 それが、この「みろく石穴」と呼ばれるものである。

 

 この隧道は全長189mしかないが、当時としては途方もない大工事であったのだ。

 

 「これが、その軒原庄蔵だ」と紹介すると、みんなは拍手喝采になった。

 

 そこまでで、現場の案内は終了した。あとは、当日の私の案内の時間配分だけ。これまた、11月の14日と21日。まだまだ先の話である。これは、ひとまず置いておくことにして。今度は、お昼のランチのリハーサル。女性たちは、これが楽しみなんですと・・。

 

 ここは、さぬき市末という地区にある「Cafe 樹樹(ジュジュ)」というお店で、昔は葉タバコ(米葉:ベーハ)を乾燥させるための「ベーハ小屋」だったものを改装したものだという。これが改装前のベーハ小屋である。

 

 今は説明しないとわからないくらいに改装されている。ここは、このあたりにあるベーハ小屋とは少し違っていて、「超屋根」というものがなくて、2本の煙突形式になっていたらしい・・。その名残を残してある設計になっているのが興味深い。

 

 だから、室内からは、こうして青空が見える。もちろん、雨の入らない構造にはしてあるらしい。

 

 室内は、元、葉タバコの乾燥室とは思えないほどのオシャレな作りになっている。

 

 で、肝心のランチだが、今日はオムライスとサラダである。当日は別メニューになるらしい。そういう予約やお値段や写真なども確認しておく。それにマイクロバスの駐車場とかも確認しておかねばならない。

  

 デザートには、こういうケーキとコーヒーがつくらしい。甘い物は苦手なんだが、今日はお仕事だからと食べてみた。ま、やわらかくて(当たり前だ)おいしかった。

 

 県道脇には、こういう目印があるのだが、小さなものだから見逃すとお店にはたどり着けない。そんな山に隠れた、まさに隠れ家的なカフェである。

 

 今日の掲示板はこれ。「小さくてもいいから、鋭いキリで深い穴を開けてみよ。壁の向こうが見えてくる。」という常盤文克さんのことばから。人生において大きな壁に突き当たることは多々あるもの。目指す目標が大きければ大きいほど、その壁は高くなり、厚くなってくる。そんなときは、この言葉のように、小さな穴から活路を見出す努力も必要なのではないだろうか。じっと、こまねいていてはものごとは進まない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


彼岸花 揺らせて過ぎる 風がある

2015年09月08日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。また、夜遅くにも雨が降る見込みらしい。気温はぐんと下がって19度から24度、湿度は90%から84%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。明日の9日は、台風第18号が北上する影響で雲が広がり、雨や雷雨となるらしい。

 

 今日も雨である。全く・・梅雨のような秋雨の連続で野菜や米の収穫にも困っているらしい。

 

 連日の雨で、このようなキノコ類がニョキニョキと伸び放題である。食べられるようなキノコではない。

 

 で、恒例となった火曜日の「おへんろ交流サロン」である。毎週火曜日はここで「俵札(俵に入ったお遍路さんの納め札)の調査」が行われる。パソコンが堪能だから・・ということで、緊急動員されているというわけだ。

 

 ここは、お遍路さんたちの情報交換や地域住民との交流の場になっている。また、交流サロン内にある「へんろ資料展示室」には、江戸時代の紀行本や古地図、また接待を受けたお遍路さんが残した江戸中期からの納札や古い納経帳、手形など、四国遍路の歴史を感じさせる貴重な資料となる品々が展示されている。

 

 今日はお天気が悪いせいか、参加者はぐんと減って八人ほどになった。この人たちは、くしゃくしゃになった納め札のしわを伸ばし、一枚ごとにファイルに納め、手前の先生が読み取って整理をしている。

 

 こんな風に、手書きの納め札を読み取って、「整理番号・納め札・弘化3年・備後国・福山市深津・手書き」などと整理をしてくれる。

 

 それをデジタルカメラで撮影して画像化されたものを、私が読み取って、

 

 会長さんが、エクセル・シートに入力して行く。先週は、この仕事が逆だった。私が、この入力当番だったのだけれど、今日はタイピングが素早い女史が来る・・・というていたのだが、欠席したために、やむなく、こうなった。

 

 9時から始まった作業は11時半でおしまいになる。あとは座談会になって、12時に解散になる。今日は、おはぎにシュークリーム、それにいちじくがサービスで出された。ま、みんなの持ち寄りである。私たちは便宜上、「お接待」と呼んでいる。お接待だから、否が応でも受け取っておいしく食べなければならない・・・。

 

 こういうのを、お昼前に食べたらだめだ。それに飲み物はコーヒーである。だから、今日のお昼はお休みになった・・・というか、これらがお昼になった。

 

 この地図は、この「おへんろ交流サロン」から、四国霊場88番札所の大窪寺までのお遍路ルートである。ここの「前山ダム」から大窪寺までには五本のルートがある。このうちの、水色のルートが「花折れ峠道」であるが、私は一度も通ったことがなかった。「それじゃぁ、ダメじゃん、春風亭昇太」ということで、今日は時間もあるから・・ということで、車で走ってみた。

 

ここが、「峠の地蔵」で、七十丁の地蔵とも言われている。大窪寺まで後少しなのに、力尽きて亡くなった人の墓が右側に二基並んでいる。

 

 地図で見ると、一直線に大窪寺に向かっているように見えるけれど、実際には、つづら折りの急な坂道の連続。これを歩いて上り下りするのは大変だろうなぁと思ったことだった。

 

 ま、形としての「おへんろさん」も尊いと思うけれど、これを歩いてお四国を一巡するというのは体力的にも財政的にも精神的にも無理だなぁと思うことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「どんな難局にあっても、「どうにかなる」という楽観性と「自分でどうにかする」という強い決意があれば、そこを切り抜けていくことができる」という塩月弥栄子さんの言葉から。生きていると様々な難局に出会うもの。その難局との出会いでどのような行動をするかで人間性が表れたりするものだ。多くの難局との出会いが人間性を高め、 難局に対して的確に処する術が身についていくのではないだろうか。難局に対しては楽観性と強い決意を持って臨むことが肝要であると、塩月先生は語ってい る。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


涼しさを 弥陀成仏と 頂いて

2015年09月05日 | ふるさと散歩

 さぬき市国地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、昼過ぎからは気圧の谷の影響で雲が広がり、雨の降る所がある見込みらしい。気温は22度から28度、湿度は90%から65%、風は1mから2mの北北西から南南西の風が少しばかり。明日の6日は、気圧の谷や湿った空気の影響で、雨が降りやすい天候になるらしい。

 

 さて、昨日が東ならば今日は西・・・という訳でもないが、今日は高松市塩江町安原下にある萩寺こと、「最明寺(さいみょうじ)」さんに行ってきた。最明寺は、四国を代表するハギの名所である。境内には現在、宮城野萩、紅萩、姫萩、駒止萩、通天萩など10数種類、約200株のハギがある。このハギは、先々代の住職さんが株分けをし、移植をして基礎をつくり、その意志を継いだ先代の住職さんが、なお一層の増殖と庭園の整備を行ったものである。ハギの花に埋もれた境内は、文字通り、「萩だらけ」なのである。

 

 ただ、まだ、時期が早いのか、境内の萩はほとんど花をつけていない。明日の九日が「流れ灌頂の供養日」だというので、駐車場や境内はきれいに整備されていた。701年、行基菩薩が薬師如来像を彫り、本尊として安置した。古くは如意輪寺、のちに北条時頼が再興し,最明寺と改名した。萩の名所として有名である。

 

 参道筋にある萩は、雨で傷んだものかよれよれになっているものが多かった。境内の萩が咲きそろうのは、もう少し先になるのかも知れない。

 

 そのお寺のすぐ前を通っている道が、「ガソリン道」と言われる、旧塩江温泉鉄道」の線路が走っていた道である。

 

 だから、このような遺跡が残されている。これは、「中村駅」という駅のプラットホーム跡」である。今は、個人に払い下げられて墓地になっている。

 

 また、旧町道部分には、このようなトンネルの跡もそのまま残されて通行できるようになっている。塩江線(しおのえせん)は、かつて香川郡香川町仏生山町(現・高松市仏生山)の仏生山駅と香川郡塩江村(現・高松市塩江地区)の塩江駅を結んでいた琴平電鉄(ことひらでんてつ、現・高松琴平電気鉄道の鉄道路線で、日本内地における、史上唯一の非電化標準軌鉄道線であった。1929年(昭和4年)に琴平電鉄の子会社である塩江温泉鉄道(しおのえおんせんてつどう)の路線として開業したが、経営難により、のち親会社の琴平電鉄に吸収合併されて同社の塩江線となった。1941年(昭和16年)に戦争激化の煽りを受けて廃止となった。

 

 路線は「高松の奥座敷」と呼ばれる塩江温泉に至る国道・県道を沿うように敷設されており、廃止後60年以上を経てなお一部に廃線遺構が残る。また、廃線跡のうち仏生山駅から高松市香川町浅野にかけては道路となっているが、本路線がガソリンカーでの運行であったことから、この道路には「ガソリン道」という通称がある。さらにその先の同市香川町川東下から同市塩江町安原下にかけての廃線跡は塩江香川高松自転車線(香東川自転車道)となっている。

 

 これも、今も残る「安原トンネル」だが、ここは道路ではなく、農家の物置になってしまっている。

 

 その途中にあるのが、「山田蔵人高清」の墓である。五色台・青峰山(高松市中山町)の "牛鬼退治" で知られる、弓の名人「山田蔵人高清」(やまだ くらんど たかきよ)のお墓である。江戸時代の少し前の頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。

 

 これが、青峰山根香(ねごろ)寺の山門脇に建てられている「牛鬼像」である。

 

 墓碑には、「円密院弓清居士」と刻まれ、文禄三年(1594)2月2日の字が見える。

 

 目のよく見える方は、この看板をご覧になるといい。こういうお墓があると、あのような「牛鬼」がいたのかと・・・本当のように思えてくるのだけれど・・・。

 

 昨日のNHK-TVでは、これを「ヒガンバナ」だと放送していたけれど、これは、このあたりでは「鍾馗水仙(しょうき・ずいせん)というし、単に、「リコリス」と言ったりする。これはどうしても「ヒガンバナ」には見えないのだけれど。

 

 これだって、同じように「リコリス」と言うものなんだと思うのだけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「涼しさや 弥陀成仏のこのかたは」という、小林一茶さんの言葉から。この句の「涼しさ」は残暑に、ふとそよぐ風の涼しさをあらわすものであるという。省みればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「急に冷え込みましたなぁ」 と挨拶を交わす時期になった。「秋はどこにいったのか」と環境の変化を嘆く。阿弥陀さまはそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら 思惟くださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださって いるという。そんなご恩を、ふと流れてくる涼しさの中に感じたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


秋の日は 言い訳ばかりを 考える

2015年09月04日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は20度から28度、湿度は92%から59%、風は1mから4mの北北西の風が少しばかり。明日の5日は、午前中は晴れるけれど気圧の谷や湿った空気の影響で次第に雲が広がり、夕方から夜のはじめ頃は雨が降る見込みらしい。

 

 今日は久々に晴れていい季候になったので、東かがわ市白鳥田中にある「千光寺」を訪ねてみた。ここは惠日山舎那院千光寺と号する真言宗御室派の寺院である。高校生の頃、ここの経営する「惠愛学園」に勤めている人と知り合いになって、よく遊びに寄せてもらったことがある。ここは、児童養護施設である。

 

 だから・・・、もう、50年ぶりにもなるだろうか。ここには、このような池があって、周囲は全山が墓地になっている。その中心に、大日堂という本堂がある。

 

 この本堂のすぐ横に、「手袋の始祖」とも仰がれている「両児舜礼」という人のお墓がある。元はこの地の塩田で働く農家の息子が岡山の両児山金剛寺に入って修行する。ここで、「舜礼」という名を頂戴して「両児舜礼(ふたご・しゅんれい)」という名になった。本名は、「棚次米吉」であった。31歳の時、この千光寺の副住職として戻ったが、土地のタケノという女性と駆け落ちし、大阪で苦労した。その時、メリヤスと手袋を知り、手袋の基礎を築いたが38歳で病死した。その手袋の芽は、タケノ未亡人といとこの棚次辰吉によって大きく成長し、東かがわ市の基幹産業にまで発展した。

 

 こちらが、「手袋神社」と言われる場所だが、建物も社もない。この石柱が「両児舜礼」の碑であり、銅像が「棚次辰吉」である。

 

 この舜礼は還俗して、「香山舜造」と改名して、托鉢行をやめ、メリヤス手袋の製造に傾注した。38歳の1月、父の死を知った舜造は古里に戻り仏事をこなした。この時に、いとこの棚次辰吉ほか4名を連れて大阪に戻ったが、間もなく舜造は病死してしまう・・・。

 

 その跡を引き継いだのが、この「棚次辰吉」であったというわけ。

 

 近くには、「日本一低い山」と言われる「雄山」がある。

 

 ここが山頂で、境内にある標高3.6mの山頂である。白鳥神社では『日本一低い山』とうたっているが、国土地理院に日本一低い山と認められる為に、国土地理院発行2万5千分の1の地形図に掲載される事を目標としている。また白鳥神社で登山証明書を発行している。

 

 その近くで、奇妙な松を見かけた。どうにも枝の形がおかしいし、葉っぱの出方も妙である。台風かなんぞで、枝がねじれてしまったみたいである。

 

 で、この辰吉の開発した「簡便飾縫機」を探してみたが、どこともが「貴重品」だとして隠してしまってあるらしく、一般の目には触れられないようである。やがて、いつの日にか、この特殊ミシンが展示公開されるのを見てみたいものである。

 

 これは一般に公開されている手縫いミシンであるが、これを参考にして、観音さんから夢告された「歯車」を採用したのが、辰吉の特許らしい。

 

 奥方のけいこばぁが、「東に行くなら、このボールペンの芯を交換してきてよ・・」というので、この文具店に寄ってきた。書けなくなったボールペンを持ち込めば、有料だが替え芯を交換してくれるなんて初めて知った。料金は品物によるが、60円から90円くらいらしい。新品を買っても90円から150円くらいなものだと思うのだけれど・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分には人間だものと言い、他人には人間のくせにと言う」というもので、いつもの赤松先生のお寺にあったもの。言い訳をするときに、自分には、「人間だもの」と言い、他人を責める時には、「人間のくせに」と言う。車いすの人を「障がい者」と言い、メガネをかけた人は、「健常者」と言う。足と目の違いだけなのに。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


こおろぎは 世のあれこれを 聞き流す

2015年09月02日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で昼過ぎから雲が広がり、雨や雷雨の所があるらしい。気温は22度から27度、湿度は94%から72%、降雨量は0mm/h、風は1mから4mの北北東の風が少しばかり。明日の3日は、前線や上空の寒気の影響で雨が降りやすく、雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 例の「まち歩き」のリハーサルが、今週の土曜日に迫ってきた。こころの準備はできているのだけれども、ペーパーとかの準備は皆目である。どういう資料を何部用意するかもわからないし、どんな形式で資料を作ればいいのかも浮かんでこないのだし・・・。

 

 まずは「現地に行こう」「現物にさわろう」である。

 

 こういう画像がでてきたものだから、今日は、この実物を探しに行こうと決めた。朝方は秋のようなさわやかな天候だったし、暑くもないし、寒くもないし・・・と。でも、お墓って言ってもなぁ・・と、やや不安。田舎は自分んちの屋敷や畑の中にお墓を作ることがあるし・・・。

 

 でも、そんな心配はいらなかった。要所・要所に、こういう案内標識が立てられていた。「顕彰会」というグループが、こんな看板を立ててくれているのである。

 

 青い矢印は、博士が子供のころに通った小学校の位置。お墓は自宅とは少し離れた「熊高山」の中腹、赤い矢印の場所にある。生家は、赤い矢印の下(出発点)あたり。

 

 細い山道を、クモの巣を払いながら登っていくと、幾つかのお墓が見えてくる。この地区の墓地らしいが、数はそんなには多くない。その中ほどに、このお墓があった。

 

 このあたりでは珍しい「院殿号」のついた立派な法号である。詳しくメモしようと思ったが、ものすごい「藪蚊」の襲来を受けて早々に退却した。雨のあとでもあったせいか、藪蚊独特の羽音と顔面にぶつかってくる小さな物体にはお手上げだった。こんなところにもあったのか、「院殿大居士」号が・・・。

 

 真島家の墓域はこういう形式になっていて、お墓は東面している。

 

 これが「神前(かんざき)小学校」で、ここに胸像とか顕彰碑とかが建てられているが、二学期が始まっていたので、中には入れなかった。

 

 その足で、東かがわ市にある「手袋資料館」に寄ってみた。真嶋博士の次は、この地の手袋産業の始祖、「棚次辰吉」氏である。その手掛かりを求めてやってきたというわけ。

 

 これが、その棚次辰吉さんである。明治7年の生まれで、生家は貧しい農家だった。小学校にも行かせてもらえず、檀那寺である教蓮寺という真宗のお寺の奉公に出た。その後、いとこの「両児舜礼」に誘われて大阪に出てメリヤス業に就いた。こうして、彼の作ったミシンを使って「手袋」が作られるようになった。

 

 ま、その手袋の話はずっと先のことになるので、今日はここまで。とにかく、今日は、概略の把握と、これからの作戦の立案のための下調べ・・・というところ。

 

 今日の掲示板はこれ。「不幸には不幸の原因があり 幸福には幸福の原因がある どちらの原因も自分がつくる」という「城たいが」さんのことばから。そもそも、幸福も不幸も、自分のこころのなかの問題なのであるから、自分自身の問題ではある。ただ、私たちはマイナス思考の名人だから、不幸ばかりを追い かけている。新聞もテレビも不幸ばかりをやっていて、それを見て、みんなは安心している。幸福になると、みんなから嫉まれるし嫌われるから、しんどいけれどと、みんな不幸になっている。忙しい・・貧しい・・・苦しい・・・と言い続けて暮らしているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


気が付けば 蝉の音絶えて 日が落ちる

2015年08月27日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は20度から28度、湿度は92%から56%、風は1mから3mの北北東の風が少しばかり吹いていた。明日の28日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

  

 さて、昨日はわが家に戻って来るまではなんともなかったし、ブログもFBも普通に更新したのに、夕食を食べたとたんに気分が悪くなって、18時前から寝てしまっていた。食事もほとんど口にできなかった。

 

 疲れなのか、食あたりなのか風邪なのか・・・、二階の寝室で寝てみたり、涼しい書斎に布団を運んで寝てみたりして、目が覚めて起きたのは、朝の6時半だった・・・。実に十二時間も寝たせいか、首筋から背中から腰からが痛かった。奥方は気味悪がって一階のリビングで寝たらしい。

 

 これが、昨日食べた「花オクラなのよ」と、奥方は言うが、これが原因ではないのだろうか。とにかく、眠たくて眠たくて・・・・。ちなみに、花オクラと実オクラとは種類が違うし、茎も葉っぱもビミョウに違うし、この花の大きさは異様に大きい。これにベーコンとかハムとかを巻いて食べる。

 

 さて、昨日が西ならば今日は東だ・・・ということで、九月の「町あるき」の最終確認。リハーサルが9月の5日の土曜日だったはず。今回は津田の松原と大川町の「軒原庄蔵」である。

 

 この津田の松原には、多くの文人墨客らが訪れたし、映画俳優の嵐寛寿郎・浅丘ルリ子なんかも撮影のためにやってきている。そんな一角に、この「平山郁夫画伯写生の位置」という場所がある。このあたりを町あるきするのだそうだ。

 

 風景的にはこんな感じ。「白砂青松」というのは昔の話し。それでも、ここはよく松を生かせて有ると思う。多くの山やお庭では松枯れで松の木なんぞ見なくなってしまったのだけれど。

 

 ところが、もう一本の「棟方志功の松」というのが見つからない。高校生の頃には、この松原はお庭みたいな感覚で走り回っていたのだが、記憶の森は遠くに霞んでしまっている。

 

 道の駅まで戻って来て、ここの職員さんに聞いてみたが、「近くにいながら、松林は歩いたことがありませんの・・」と仰る。それじゃ、ダメじゃん、春風亭昇太。ここは観光案内所も兼ねているんでしょ。

 

 園内を散歩しているおじさんに訪ねたら、「洗心亭の裏側や」というので早速に向かってみると、「洗心亭」という料亭の西浦手に確かにあった。

 

 「おお、兄弟、ここにおったか!」。

 

 この頃になると、気温はぐんぐんと上がってきて暑くなってきた。ここの海水浴場の露店や桟敷席なども解体・撤収工事が行われていた。

 

 町内の「軒原庄蔵」についてはさらりと流して歩いてみた。これが、その「銅像」である。

 

 江戸時代末期ごろの掘削工事風景。こうして山にトンネルを掘って、農業用用水を通したというお話である。

 

 こちらが、そのトンネルの出口部分である。トンネルはこの下側にある。

 

 ここへ、わが家のすぐ脇を流れる水が、ここにまで注ぎ込まれて、この町の水田を潤しているのである。

 

 これが、わが家の横の水路であるが、今年は一度も、この水路に水が流されることはなかった。それだけ、雨が多かったということである。

 

 今日の掲示板はこれ。「人は一人では人になれない 支えてくれる者があってこそ 初めて人であることを知るべきだ」というもの。どこの誰の言葉かはわからない。子供の頃には、こんなことをよく聞かされたように思う。「人」という字は人が支え合う様子を表しているのだとかと。今でも、人は一人では生きていけない」と思うのだけれど、「おひとりさま」とか「ひとり旅」とか「都会の中の一人」とかと、ずいぶんと「一人で生きている」人が多くなった。都会のマンションの一人暮らし、避難先の仮設住宅での一人暮らし。でも、一人で生きると言うことと、「ヒトして生きる」ということは違うのだということをこの言葉は教えてくれている。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


すぐそこに 百合の花あり 六地蔵

2015年08月26日 | ふるさと散歩

 丸亀地方は、湿った空気の影響で西部を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。気温は24度から30度、湿度は84%から63%、風は5mから3mの西の風が少しばかり。明日の27日は、高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 台風騒動の中でも、合宿に来ている学生さんらは朝から元気に砂浜ではしゃいでいた。高校生かと思っていたら香川大学教育学部の学生さんだという。毎年、恒例で合宿なんだそうだ。

 

 さて、台風一過ということでさわやかな朝になった。で、朝から生ゴミ、燃えるゴミ、空き缶ゴミなんぞを片付けて、戸締まりをして・・・。8時35分発のフェリーボート、しわく丸に乗って帰ることにした。

 

 お盆明けの16日に島に来たときに、軽トラのキーがないということで、歩いて島の家に行ったことがあったが、その時のスペアーキーが右の物。緑の犬がついているもの。それとよく似たキーがあることにようやく気づいた。長さが若干違うが形は似ている。このキーを軽トラに差し込んだら、なんと動いたではないか。つまりは、すっかりと忘れていたが、これが本来の軽トラのキーだったらしい・・・。

 

 今日はもののついでに仏壇店に寄って帰ることにした。丸亀市塩飽町にある吉塚仏壇店のここが本店さんらしい。高松の三条店さんにはよく立ち寄ったものだったが、ここは初めてである。

 

 で、和ろうそくを買ってきた。 

 

 私のブログで、昨日の検索項目のトップがこれ。「川中うどんの火事」である。ここの火事はずいぶんと前のような気がするが、なんで今頃、そんな記事を探すんだろう。

 

 このお店になってからもずいぶんと年月が経っている筈・・・。まだ、10時過ぎだったが、ついでにここでおうどんを食べてみることにした。ここは元は美容室だったような気がしたが。

 

 おばあさんが一人でお店をやっているような感じ。ここのおそばが有名らしいが、今日は「ひやかけ小」をお願いした。ここはセルフサービスではない感じ。エッジのしっかりとしたおうどんでおいしいと思った。

 

 ふと、この道は満濃池に向かう道ではないぞ・・・ということに気が付いて、途中から山の中へ入り、満濃池の奥にあたる「五毛」という集落からまんのう公園の方に進んでみた。これは「五毛の二十四輩さん」である。

 

 昔取った杵柄で、あちらこちらと走って、かりん会館から満濃池に出てきた。

 

 満濃池から綾川町の旧綾上町」経由で高松空港でトイレ休憩。

 

 夏休みを楽しんでいる子供たちの声がよく響いてきた。でも、もう、夏休みもおしまいだ。

 

 今日の掲示板はこれ。町内の善楽寺さんの掲示板からで、「先祖からのいただきものは子孫からのあずかりもの」というもの。少し言葉が違うかも知れないが、「過去からの贈り物」と「未来からの預かり物」。ネイティブアメリカンに伝わることわざに、次のようなものがある。「自然は祖先からの贈り物ではなく、子孫からの預かり物である」と言う言葉である。多くの人々は「自然は祖先からの贈り物」と考えがちである。祖先が大切に守ってきてくれた自然を、現在の自分たちが受け継いでいるという考えである。一方、ネイティブアメリカンは、逆に「自然は子孫からの預かり物」と考えていた。では、なぜこのように考え方が違うのだろうか。多くの人の考え方では、現在から祖先という「過去」をみているが、逆に、ネイティブアメリカンは、現在から子孫という「未来」をみているのである。つまり、両者の考え方の違いは、視線の向かう方向が異なるのである。「過去」を見るか、「未来」を見るかの違いである。これを会社に当てはめてみると、「過去」を見た場合、「諸先輩の努力で現在の会社がある。自分たちはそれを受け継いでいる」。「未来」を見た場合、「自分たちは、未来の社員から現在の会社を預かっている」という見方の違いなのである。どうだろうか。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


日が落ちて つくつく法師の お説教

2015年08月21日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は、前線に向かって流れ込む湿った空気の影響で、雲が広がっている。気温は24度から29度、湿度は96%から73%、降雨量は微量、風は1mから2mの北北東の風が少しばかり。明日の22日は、前線が次第に南下するため、雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 台風の影響なんだか、湿った空気がどんよりとして蒸し暑い一日になった。

 

 最近、野猿が見えなくなった・・・と思っていたが、栗の実が見えるようになると子猿たちがやってきて、これを器用に食べている。猿は不思議なことにはじけて落ちる前に食べてしまう。道具もないのに、このイガだらけの栗を枝から外して、イガのまんまをきれいに割って中の実をかじって食べている。手袋もなにもないのに痛くはないのだろうかと毎年、思う。

 

 さて、図書館で借りてきた親鸞さんの本を、スキャナーで読み取る作業を今日もやっていた。本を一冊、まるごとデジタル化するには二日も三日もかかる。いい加減、肩こりと首筋の凝りがひどくなってきた。

 

 読み込んでから、それを修正していく作業が面倒なのだ。「やっばり」とか「祈ら」とか、意味のわからん言葉になっているのを、ひとつひとつ修正していくのが面倒なことだ。

 

 こっちのデスクの方では別な作業をやっているし、検索とかfacebookを開いたりと、こちらも忙しい。

 

 で、気分転換に高松市仏生山町にある「仏生山法然寺」に行って来た。特に何があるからという事でもなくて、ただ、ふらりとやってきただけ・・・。

 

 言うちゃぁ、なんだが、この近辺では、ここの仁王さんが一番、迫力があっていいお顔だと思う。中学校の時の遠足以来、年も寄せず、迫力も衰えず、いいなぁと思っている。

 

 ここは観光寺院でもなく、真宗寺院のような窮屈さもない。拝観料を納めたら本堂や三仏堂にも入っていける。だからと言って案内役がつくでもなく、自由に拝観ができるのがありがたい。本尊は阿弥陀如来立像。合掌礼拝・南無阿弥陀仏。

 

 さすがに、この時期には「来迎堂」や「般若台」には登りたくない。書院、本堂、三仏堂を拝観させていただいて、五重塔から仁王門へ出ておしまい・・・。

 

 お盆が過ぎたら、少しは涼しくなるかなぁと思っていたが、昨日、今日の蒸し暑さはどうだ。今日の昼間はセミさえも啼くのをあきらめて暑さに耐えている様子。夕方になれば、つくつく法師やヒグラシがにぎやかに啼くことだろう。

 

 そうそう、昨夜、にぎやかに秋の虫たちが啼いているのを聞いていた。鈴虫とかコオロギとか・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「見えそうで見えないものは 自分の短所と欠点である」というもの。あの、「笑点」の「大喜利コーナー」で、「見えそうで見えないものは」という「お題」ならば、いい物が出てきそうだが、この答えはつまらないなぁと思う。自分の短所や欠点なんぞはどうでもいいことではないかと思う今日このごろ。それがとりもなおさず、自分の長所と特徴ではないのかと思ってしまう。そんな、自分の短所やあら探しをせずに、堂々と歩いて行きたいものだと思ったりすることである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


縁により 大護摩の火を 撮っている

2015年08月20日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は、前線や湿った空気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、雨の降っている所があった。気温は24度から28度、湿度は98%から72%、降雨量は朝方の1mm/hのみ。風は1mから2mの南南東の風が少しばかり。明日の21日は、引き続き前線や湿った空気の影響で雲が広がり、明け方にかけて雨が降るらしいし、雷を伴う所もある見込みなのだとか。

  

 午前中は、図書館で借りてきた民話集を電子データに取り込む、「スキャニング」という作業をやっていた。とにかく、気になるところはデジタル・データとして確保しておくことにしている。そうすれば、いつでも加工ができるし、アナログ化もできるということで。

 

 そうそう、8月の頭に、しわく広島にやってきた善通寺の中学生に幕末歴史講演をしたのだが、そのお礼状が届いた。お約束通りに「まほろばさん」とか「まほろば工房の木村さん」という書き出しになっていたのがうれしかった。こういう子供たちが少しでも幕末史や塩飽史に興味を抱いてくれるとうれしいのだけれど。

 

 さて、今日は8月20日ということで、四国霊場88番札所の大窪寺に行く日である。その事前に、お昼はここになった。門前にある「八十八庵(やそばあん)」というお土産屋さん兼おうどん屋さんである。

 

 名物うどんはいろいろとあるのだけれど、私の夏場はこの「団蔵うどん」。細切りうどんのざるうどんである。細切りだからさっとゆがいてあって、うどんの味がしっかりと残っているし、食べやすい。あの、歌舞伎役者、市川團蔵にちなむおうどんである。

 

 その後、若葉の美しい境内へと入っていく。時間はちょうど、12時半。

 

 すると、本堂からこうした山伏たちが法螺貝とともに下りてくる。今日はカメラの設定を誤っていてきれいな画像が撮れていなかった。

 

 この方が大窪寺の住職さんで、参詣・参拝・協力者の皆さん方へのご挨拶。

 

 春のお彼岸の中日と、夏の8月20日には、こうして柴灯(さいとう)大護摩供養が行われる。この護摩供養は、修験道独自の護摩儀礼で、野外に護摩木や藁(わら)などを積み上げ、そこへ仏菩薩を招いて点火する。その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願する。修験者自身の修行として行う場合もあれば,寺院の年中行事のとき、あるいは信徒の諸祈願にこたえる場合にも執行される。護摩木は人間の煩悩をあらわし,その護摩木を井桁に積み上げるのは,人間の罪垢が井戸のように深いからであると説明されている。

  

 この子たちも毎年見かけるようになった。こうした若者たちがいて、伝統行事が継続できるのだなぁと思ったことだった。まだまだ、所作に落ち着きがないが、これからの精進を期待したいものである。

 

 この頃になると、熱気と湿度とで汗まみれになってしまった。その後、火渡りなどがあるのだが、あまりにも暑いので失礼させていただいた。

 

 もう、みんな、暑い、熱い、あつい・・・。

 

 家に着くなり、冷凍庫からこれを取り出してかぶりついたが、あっという間に食べてしまった。それでも少しも涼しくはならなかった。

 

 今日の掲示板はこれ。「つくべき縁があればともない、はなるべき縁あればはなるる」という「歎異抄(たんにしょう)」の言葉から。自分がどれほど力を込めて関わろうとも、また、離れないでほしいと懇願しようとも、離れていくような条件が整えば、事実として離れていくのである。ところが、その事実を認めることができない人間の我がままによって、この人は私が教えた弟子だから他の人の所へいってはいけないと主張をし、念仏申す人々の中で弟子を奪い合うといった事が起こってきたのである。そこには他人を自分の思い通りにしたいという人間のエゴがあった。坊さんの世界で起こるようなことは、世間一般でも似たようなもので、人は別れたり結びついたりするのだけれど、そこには、「縁」というものがあるからなのである、と、教えてくれているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


この暑さ 広島の空も 澄んでいた

2015年08月05日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていたが、午後は大気の状態が不安定となるため、雨や雷雨となる所があるらしい。気温は24度から34度、湿度は92%から66%、風は2mから3mの北北東の風が少しばかり。明日の6日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れるけれど、午後は大気の状態が不安定となるため、雨や雷雨となる所がある見込みらしい。

  

 さて、夏休み恒例の資料館巡りは、香川県西部の観音寺市豊浜町まで飛んで、「豊浜郷土資料館」を目指した。元は旧三豊郡豊浜町の歴史文化、産業、そして農業と生活文化を映像や実物資料等により紹介、展示している施設だった。隣の「ちょうさ会館」とともに、平成の大合併によって、観音寺市に移管されている。また、讃岐三白の一つである「綿」をテーマとした映像、体験コーナー等で、あたたかい綿の世界も体験できる。

 

 ここに着いたのが9時前だったのだが、「さぬき市からやって来た」と言ったら、9時半開館の施設を9時前に開けて説明をしてくださった。

 

 ここは、「Cotton Museum」ということで、綿の体験実習もやらせてもらえる。コットンボールから種を取り、綿を打ち、糸繰りして糸に紡ぎ、その糸を染め、織物を作る工程などを体験できるらしい。私も少しばかりコットンボールで遊ばせていただいた。

  

 観音寺市豊浜町の関谷地区は、古くから『わた』に縁の深いところだった。最盛期には、この地域だけで20数社の製綿所が軒を連ねて営業していた。今でも、綿神社、綿廻船の関谷港、大正ロマン漂う製綿事務所跡などが、往時をしのばせている。そもそもは、水の少ない讃岐の地では稲が作りにくかったことから、水を必要としない綿作りが行われたのだという。本当は木偏の「棉(わた)」という字なのだが、人が手を掛けると、糸偏の「綿」になるのだという話が印象的だった。

 

 綿の花は、一日目は白かクリーム色で、二日目にはピンクになるのだという。そして、三日目からはコットンボールができはじめるのだという。

 

 そこから海岸線を東へと走り、多度津町の「多度津町立資料館」にやってきた。ここは、夏休み恒例の「戦争資料展」をやっている。

 

 戦後70年、戦争も風化してきたし、語り部も高齢化で少なくなった。小学生が数人いたが、ここに展示をしてある品物を見てもちんぷんかんぷんのようで、ほとんど興味を示さない。宇宙戦艦ヤマトやコミックなんぞの戦闘シーンのような派手さがないので、まるで骨董品かゴミでも見るような冷淡さ。そのお母さんだって、こういうものを見ても分からない・・・。

 

 お母さんだって、まだ、30歳台なんだろうから、こんなものを見せられても、何がなんだかわからない。なんで、こんなものを使うのか・・・と言う意味すらわからない。

 

 正面の桶。「これで火事を消す」と話したら、「消火器をなんで使わないの」という。昭和は遠くなりにけり。戦争は風化するばかり。かく言う私だって「戦争を知らない子供たち」だった。

 

 今日のメインはここ。丸亀市立資料館。丸亀城内にある。

 

 丸亀が生んだ勤王の志士、土肥大作を取り上げた展示会である。脇差しとか、印籠とか、焼き物とかもあったが、多くは書や歌などの軸ものが多い。その頃の、「勤王の志士」と言われても、全く知らない人ばっかり・・・。

 

 たまたま、このお店の前を通りかかったら、車の数もお客さんも少なかったので入ってみた。この暑いのに、並んでまではおうどんを食べたくはない。ここは、丸亀市飯野町という地区にある「飯野屋」という一般店。

 

 甘辛く煮た牛肉とうどんの相性の良さは、誰もが認める黄金コンビ。その絶妙なバランスを極めた飯野屋の肉うどんこそが、「肉うどん食べに飯野屋行くか!」と言わせる看板メニューとして知られている。ありきたりの薄切りタイプではなく、秘伝のだしでじっくり煮た厚み・大きさともボリューム満点とかみ応えのある牛肉。しかも、大ぶりな肉とモチっとした麺の食感が個々の存在感を発揮しつつも、互いに主張しすぎることなくひとつの美味となって口中に広がる様は、何度食べてもおいしいと思う。

 

 いよいよ明日が八月六日。今日の掲示板は決まってこれ。「忘れざることが供養や原爆忌」というもの。原爆を、被爆を、戦争体験を、風化させることなく伝えていくことこそが、先人への礼儀であり、供養であるというのである。今年で70回目の原爆の日、私の記憶も風化しつつあるが、若い頃の広島の暑い一日を改めて思い出しながら黙祷をしたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


ツイッター

<script type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>