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まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

雪片の 舞来る朝に 大くしゃみ

2010年02月21日 | 歴史
 さて、今日も大霜の朝になった。きっと、いい天気になるなぁと思った。気象予報士ではないのだけれど・・。

 円覚寺の「叶丸難船図絵馬」は、遭難を免れた感謝を込めて奉納されたもので、荒れ狂う大波に翻弄(ほんろう)される弁才船の姿が描かれている。叶丸(かのうまる)は松前藩の御用船で、これと全く同じ絵馬が、北海道松前町の渡海神社(とかいじんじゃ)にも奉納されている。

  

 遭難時には帆を下ろし、船を安定させるため船首から碇(いかり)を垂らした。時には自ら帆柱を切り倒すこともあった。どうしようもなくなると、乗組員は丁髷(ちょんまげ)のモトドリを切って、神仏の加護を一心に祈った。その願いが通じたのか、この絵馬では、神仏が瑞雲に乗り、御幣(ごへい)に姿を変えて、救いに現れている。

  

 遭難を免れた後でも、御礼として、神仏との約束に従って自分の丁髷を切り、これを絵馬として奉納する風習があった。円覚寺には「髷額」(まげがく)と呼ばれる丁髷の絵馬が多く残されており、全国的にも貴重な資料となっている。

 で・・さぬき広島にある海難絵図だが・・

 

 左上に剥落しているが・・御幣が描かれていた跡が見える・・。写真では見えないのだけれど。上の画像の叶丸の絵馬では右上に御幣があるが、普通は・・左上に御幣や阿弥陀、釈迦三尊、紫雲などが描かれるという・・。下の画像左の左上に御幣が見える。

 

 上段右側は西洋の海難絵馬だが、同じように左上端にマリア様が描かれている。

 さて・・広島神社の絵馬の前の部分に、二人の水夫が合掌して神仏に祈る姿が見える。この時代、嵐に遭遇した場合には、帆を下ろし、あるいは帆柱を切り倒し、錨を前に入れ、まげを切り、紙くじを引き、最後には神仏に祈るしかない・・。

 

 さて、この向井さんの絵馬は、遭難時にロープを後ろに流して船を安定させているということで、大いに参考になるということで取り上げられる海難絵馬なのだが、当日に参加した会員さんから、「ロープを後ろに流すのは不自然ではないか」という意見が出た。ガフという前帆を出して前を安定させているならば、ロープも前に流さないと意味がないし、ガフが風を後ろから受けているから、ロープを後ろに流しても前に流れてしまう・・・という意見が出た・・・。なるほどなぁ・・。それはそうだ。

 

 これは、同じ広島神社にあった海難絵馬の一つの「白賀氏」のものだが、荷物の米俵を海の中に投げ捨てている。これを「跳ね荷」といい、「捨て荷」「荷打」とか言われて、船のバランスを保つために荷物を捨てることをいうらしい。白くなった部分の上側に米俵が山積みになっている。その海のほうには・・米俵が投げ込まれている図が見える。

 ま、おおまかだけれど、海難絵馬には、こうしたものが見えてくるというお話だった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

一句出て 後が続かず 沈丁花

2010年02月20日 | 歴史
 さて、昨日にご案内の通り、高松市亀水町(これで「たるみちょう」と読むのだそうだ)の瀬戸内海歴史民俗資料館に行ってきた。五色台の・・・昔の有料道路の端っこ。坂出市大越が間近な場所。

 

 もう、目の下には・・大槌島や小槌島が見えている。坂出市とのほんの境界線みたいな場所にある施設らしい。時間が少しばかりあったので・・この・・モニュメントを見てきた。

 

 さぬき弁でいうと・・「これ、なんなぁ~」というようなもの。こういうものが山の中の海を見下ろす崖の上に置いてある・・・。ほんまに・・・「これっちゃ、なんな・・・」みたいな・・。

 これ・・、実は・・「流政之」さんの作品で、「またきまい」というものらしい・・・。讃岐の人はわかると思うけど・・「また、来てね~」というのを・・「またきまい」という・・。その場、その場のニュアンスはあるんだけれど・・。

 

 で・・、その・・瀬戸内海歴史民俗資料館に行ったら、「まだ、お時間がありますので、館内を自由に見学なさってください」と言われて・・・。昨日もここで・・自由に見学したのだけれどね・・・。ということで、今日は・・屋上の展望台にも上ってみた・・。

 

 で・・、午後一時半から講義が始まった・・・。講義は、直島に伝わる大庄屋「三宅氏」の古文書の中から選んだ海難事故300件の分析結果の報告・・・。ま、それぞれに興味深かった・・。

 

 私が希望していたのは「海難絵馬」・・。そこに・・さぬき広島の、広島神社にあった海難絵馬二点の実物が出てきた・・。「あ・・、これって、みたことがある・・」みたいな。昔には、これがいつもあったんだ。それがいつの頃にか写真に変わってしまったけれど、それもつい最近のことだと思う・・。

 

 これが・・奉納年月日。「明治十六年旧八月四日」と書いてあるのかな・・。今日の講義ではそこには触れなかったのだけれど。で・

 

 ここも・・・一切説明がなかったけれど、「当浦」つまり、さぬき広島の地船の・・「讃岐丸」の「向井慶太郎」さんが奉納した海難絵馬らしい・・・。

 この絵馬と同じように広島神社にあった「白賀」さんの和船の海難絵馬の実物を見ながら・・・館長さんが説明してくれたが・・。

 

 船絵馬というのは・・・四万枚に余るという・・。しかし、海難絵馬というのは・・その1パーセントにも満たないのだという。しかも海難絵馬は江戸時代にはなく、明治になってから描かれて奉納されたものだから、奉納者も少なく、絵馬師も少なくなった時期らしいとのこと。今後の研究の種にはなるなぁと思った・・。

 いろいろとお話したいことはあるけれど、くどくなるので、今日はここまで・・というたものの、お話が途中・・。

 

 で・・今日のお昼は・・その・・五色台にあがる前に腹ごしらえ・・。高松西インターチェンジ前にある・・「こんぴらや西インター店」に入ってみた・・・。

 すると・・「しっぽく始めました」という文字が・・・。だとぉ・・、しっぽくうどんを食べなくては。。。みたいな雰囲気になって・・。「卓袱」って書くんやろうか、本当は。

 

 ま・・お野菜の具は盛りだくさんだなぁと思った・・。麺は細めんで上品だけれど、コシが少し甘いかなぁと・・・。これで・・390円だと思った。ま、」それなりなのかなぁとは思ったけれど、そんなにも心には残らなかったのかも知れない・・。


じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 

弦の音の こころ震わす ももての日

2010年02月14日 | 歴史
 今日は、さぬき広島・茂浦で「百々手まつり」が行われる。折しも・・旧暦の正月一日になる。

 戦後までは、射手たちはお寺(正福寺)におこもりをし、長老よりしきたりの説明を受け、二~三回ほど弓の練習をし、それが終わると持ち寄った餅を焼いて夜食として食べ、翌朝起きるとすぐに海に入り塩垢離(しおごり)して身を清め、寺に戻って朝食をとった。朝食はメザシ、汁、ご飯という簡単なもの。その後、裃を着用し、寺を出て再び海に向かう。

 

 そのときに菰竹の的に捨て矢や道具一式を包んで二人でかつぐ。他の射手は各々の弓矢を持参する。海で弓矢の先を清め、塩竃神社に向かい、神社の周りを「ちょうさじゃ・ちょうさじゃ」の掛け声とともに三回回って拝願する。

 

 その後、浜の的場に向かったものだが、今は茂浦の公民館の庭が的場になる。お隣の塩飽本島の「やまでらさん」正覚院の三好住職の神事のあと、一行は公民館に入り、休息をして・・・そのあと、朝の食事になる。

 食事のあと、みんなは庭に出て百々手祭が始まる。

 

 百々手は小笠原古流という流儀に準ずるもので、この作法が記載されている書物は全国に三冊しかないといわれ、一冊が茂浦に、一冊は京の旧家に、一冊は行方不明といわれ、極めて古く、貴重なもので大切に保存されているらしい・・・。

 だが・・その作法集は・・・誰にも読めないらしい。コピーした書類を古文書研究家にも調べてもらったが・・・誰にも読めないらしい・・。

 並ぶ順番が決まると射手は弓を放つ用意をする。「どなたも矢はそろいしか」というと、全員は「なかなか」と答えて矢を放つ用意をする。先頭のものから順番に、「悪魔降伏悪鬼」と称えながら弓を引き、ねらいを定めて矢を放つ。放ち終わると「退散っ」と唱えて二本ずつ三度弓を放つ。これが「三度弓」と呼ばれるもので、悪魔や悪鬼をまず退散させてから、その後の神事に入ってゆく。その幕間として休憩に入り、お神酒が振舞われる。

 

 一番・二番の二手に分かれ、天照皇太神宮、広島神社・八幡大菩薩・金毘羅大権現・塩竃神社・四社之氏神・日本大小之神祇・村中繁栄五穀成就・小船早上下などと神社名を読み上げて矢を放ち、それが一通り終わると、厄年の人の名を読み上げて厄祓いの矢を射る。その後、「○○さん、海上無難」などと読み上げる。酒も入った射手の矢が金的を狙って賞品を競うと百々手も最高潮に達する。

 

 的場での百々手が終わると、道具一式を菰竹に包んでかつぎ、天王山に向かい、その広場から捨て矢を放つ。捨て矢は矢竹に色紙の羽をつけ、家庭円満とか、悪魔退散などと書かれており、その捨て矢を家庭に持ち帰り、厄除けや無病息災の祈願のために一年間門口に立てかけておく。

 

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じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

静けさに 春の寒さを 教えられ

2010年02月13日 | 歴史
 さて・・今朝もいい天気になった・・。

 で・・朝のお散歩だ。ま、この時期・・魚釣りにもならず、きれいなお花も咲いてはおらず・・、弓の練習にも早いなぁと思って・・江之浦という集落を歩いてみたが・・毎日のことになるとおもしろみがない・・。変化がないってことだな・・。

 それで・・少し足を伸ばして・・と言っても、この私の両足が伸び縮みするわけでもなくって、距離を伸ばして・・という意味なんだけれど・・。

 

 集落から奥・・・地図上で言うと・・北に進んでいくと・・「西の寺」と言われていた「医王寺跡」がある・・。ここも無住になって久しく・・近年に建物は取り壊されてしまった・・。わずかに・・石碑が残るばかり・・。そこから奥は・・竹林のトンネルになる・・。

 このコンクリート舗装が見えるが、これを笠井さんというボランティアが草刈りをして、ここに積もっていた落ち葉や木の根、竹の根を除去して・・、こんなにもきれいになっている・・。まるでほうきで掃いたようにきれいさっぱりとしている。

 

 その終端に「奥の池」と呼ばれる「江之浦池」があるが、その土手も水路もさっぱりと草が刈り取られ、竹や枯れた松なども伐採されて・・こざっぱりとしている。ただ・・刈り取った草や切り捨てた竹や松材などが盛り上げられているのは仕方がない・・。

 これを燃やしてしまおうという計画らしいが、こんな山中で燃やすのは大変なことだと思うのだが・・・。

 

 ま、池にはまんまんと水が蓄えられているので、消火用のポンプなどを準備してれば・・とも思うけれど、火の粉が山中にでも飛び込めば大変なことになるなぁと思ったのだけれど・・。

 

 その笠井さんと少しばかりお話をして。ほら、年末だかに、我が家の周囲の草刈りをやってくれたおじさんだ・・。(本当はおえらがたなんだが、ボランティアだからお忍びみたいなもんだ)あえて・・「官職名」は省略しておくが・・。

 で・・この方が・・「レキの墓」ー「羽節岩礁灯台」ー「奥の池」を結びつけて島興しを考えているらしい・・。うまく言えば・・「水つながり」みたいなもんだけれど・・。

 

 で・・、この建物なんだが、広島神社の境内の高台にあって、「石蔵:いしぐら」と呼ばれている立派な建物である。ところが、この建物の所有者がわからない。その建っている土地の所有者もわからない・・・。

 昔には・・「灯油倉庫」だと言われていたらしいが、海上保安庁航路標識課や水路課に問い合わせてもわからない・・。丸亀市に問い合わせてもわからない・・。その土地すら・・どこのものかもわからない・・・。すぐお隣の駐在所で聞いてもまるでわからないらしい。

 

 個人の物置ならいざ知らず、こんな立派な石造りの建物の所有者がわからない、土地の名義もわからないなんてことがあるものか・・。おそらく・・税金を支払っていない土地なんだろうなぁとは想像がつくのだが・・・。

 高松市屋島東町にある「四国民家園」の奥に・・「待息所」という建物群が保存されている。一般の人には聞き慣れない名前だが、実は・・灯台の職員住宅を「待息所」というのらしい・・。その建物の入り口部分の石組部分が・・この石蔵の入り口部分とよく似ている。

 つまりは・・この建物が・・灯台関連の建物で、待息所を設計したものが、この石蔵を設計したのではないのか・・、と、私は考えたのだが・・。

 ま・・今の段階では推理の域を超えない・・。近く・・四国村にも足を伸ばしてみたいものだし、県立図書館でも調べ物をしたいものだと考えている・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


 

寄り道の 妻を待っている 春近し

2010年02月13日 | 歴史
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 香川県丸亀市沖にある・・さぬき広島のお話・・。タイトルは・・◆鹿垣と鹿の墓◆

 昔、広島にはたくさんの鹿が住んでおり、山に食料がなくなると、農作物を荒らしたり、人家近くまで出没しては悪さをするようになった。この鹿の被害を食い止めようと、江戸時代末期から明治初期にかけて、鹿の通りそうなところに幅八十㌢、高さ一㍍ほどの石垣を築き、村人が交代で見張りに立ったという。現在は樹木や雑草に覆われてその様子はうかがうことはできないが、今も数カ所に面影を残しているという。

 

 また、鹿が作物を荒らし、収穫ができなくなったので、鹿を捕まえようとしたことがあった。ある日、岡山から来た猟師が鉄砲で鹿を撃ったことがあった。その雌鹿のおなかには子供の鹿がおり、それ以来、その猟師の家では不幸が相次ぎ、これは鹿のたたりだというお告げがあった。そこでみんなで鹿の子の石碑を建てて供養した。

 

 また、その話を聞いた岡忠衛門は鹿段慶霊魂塚碑を建てて供養もした。この石碑は明治九年に茂浦・青木・江の浦の人たちの寄付で建てられており、ずらりと寄進者の名前が刻まれて残る。また、竿石裏側などには「須佐男魂」「五十猛神」「三国大神」と刻まれている。この石碑は、砂川石材加工店の脇にあって、子鹿の墓と一緒にある。

 

 その茂浦の山裾にあるのが「正福寺」さん・・。茂浦の集落から山手に向かって登った谷あいに正福寺がある。医王山般若院正福寺と号す。真言宗醍醐派の寺院で、ここも弘法大師の開基と伝承される。観音寺の末寺で本尊は薬師如来だ。建立年代は不詳だが、本堂に残る幾つかの仏像や本堂の様式などから、かなり古い時期のものだと言われている。寺蔵の毛鬘に寛文十三年(1673)の記銘がある(市指定文化財)。明治二十五年に火災で焼失、明治三十二年に再建。ここも無住になって久しく、荒廃が著しい。

 

 近年、塀や山門、大師堂などが修復されている。

 咸臨丸の乗組員で茂浦出身の平田源次郎や江之浦の松井弥十郎が勝海舟の元で働いていたころ、瀬戸内海を行き来した際、この寺に立ち寄ったことがある。その時に書かれた勝海舟の直筆になる軸や渡米した時のみやげ物、咸臨丸の勇姿をガラスに描いた油絵、木村攝津守の感謝状など数点が百年以上もこの寺に保管されていた。現在は丸亀市の資料館に保存されている。

 現在は無住で、お大師参りやお涅槃には開扉され、本島正覚院の三好住職が導師を勤めるという・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


持てあます 政治法螺好きな 老婆たち

2010年02月12日 | 歴史
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 丸亀市沖にあるさぬき広島の「茂浦」についてのお話。

 さぬき広島の北側にある茂浦地区の住宅地の中、東通に鎮座するのが塩竃神社だ。昔、立石の塩田をまねて、塩入川から入ってきた塩水で製塩業が行なわれた。今の住宅が密集する平野部だ。瓦焼きの森さん宅脇の堀は海水を引き込むためのもので、宮島さんの祠が堀の中にあり、お社も砂川石材店裏手にある。製塩業が栄えるようになると、東の櫻通りの山(岡氏の私有林中)にあった塩の神さまを塩田の地にお迎えして、その業の発展をいのり、住民の幸福を図るためにおまつりをしたのが今の塩竃神社だ。

 

 祭神は塩土神・綿積神の二神だ。本殿は三尺六寸に四尺の流造り瓦葺で明治四十年に改築されている。弊殿は一間に一間半の切妻造り瓦葺。拝殿は一間四尺に三間の入母屋造り瓦葺。境内坪数は八三坪。

  

 社殿には古くから千石船の絵馬が奉納され、山本利海氏の観音丸の奉納した日本で二番目に古いものがあったが、現在は県の民俗資料館に保管されている。

 

 一時期、今の境内が狭く、社殿も小さく古いので、近くの山頂に移転しようと、整備し、鳥居も建てて、遷座しようとしたが、ついに札が落ちず、神様が移転を拒否したということで、そのままになった。今も県道脇に、主のいない鳥居だけがぽつりと建っている。

 この・・茂浦港には、「おたみさんばし」がある・・。当地の藤本通子、正樹の兄弟は大阪で電気関係の事業に成功し、正樹さんは書道家としても著名で雅号「玄幽」の名で「玄幽美術館」を建てたほか、観光事業として「いろは石」を設置したが、茂浦港には「おたみさんばし」が残る。これも正樹氏の寄進したもので、金額は五十万円。昭和十二年八月のことである。

   

 玄幽美術館近くには藤本通子さんの「一億円の別荘」がある。鉄筋コンクリート製の三階建て。通子さんは小学校などにテレビや椅子なども寄付したし、近くには島の婦人たちを集めて藤間流の舞踊も指導していた。

 

  集会場のすぐ山手に、立派な石垣をもつ屋敷があるが、ここが松田登三郎さんの生家だ。この登三郎さんは東京で大倉組という建設業の重役を務めた方で、この人も故郷茂浦西海岸の防波堤を作ってくれた。その工事は昭和十二年九月に着工し、翌十三年九月に竣工した。その時に登三郎さんが寄付した金額は二千三百五十円だった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

画用紙に さらさらと春 レキの墓

2010年02月11日 | 歴史
 さぬき広島の我が家の近くに「英国士官レキの墓」がある。江の浦集落の東、広島小学校の裏手東の道端にあるのが「英国士官レキ之墓」というもの・・。

 
   

 慶応二年(1866)十一月、英国軍艦セルビア号が瀬戸内海の海底調査に来て、航路の測量中、乗組み士官のレーキが病死したので、船に近かった広島の江の浦西海岸に上陸をして、穴を掘って屍を埋葬し、礼砲を空に向かって撃ちあげ、そこに白木の十字架を立てて帰艦した。

 その様子を見ていたおばあさんは、「遺体をかついで鉄砲を持った異国人がむかでのような船で上陸をして、遺体に向かって鉄砲を撃ちまくった」と話していたらしい。当時、邪宗門取締りが厳しかったので、すぐさま役人が駆け付けて十字架を焼き捨ててしまった。

 

 純朴な島民たちは、異国に眠る墓標もないレキの霊を慰めるために、そこでやむなく、レキのことを京の会計官櫺(かく)判事・長谷川三郎兵衛としてお寺に届け、過去帳に記載し、墓標を建ててねんごろに弔った。

 

 当時医者でもあった庄屋の岡七郎兵衛良伯は、イギリス人が祖国を遠く離れた地に寂しく葬られているのを哀れに思い、長谷川という異国名では安からに眠ることはできないと考えたが、当時はキリスト教は邪教とされ、厳しく禁じられ、また、きつく取り締まられていた時代であったし、幕末から明治維新に至る世情騒がしい時期でもあり、各地で「えーじゃないか」や、隣の塩飽本島では小坂騒動も起こったりした時代だった。

 

明治元年(1868)十一月になって、国体が変革したのを期に岡良伯は同所に花崗岩で「英国士官レキ之の墓」という立派な墓碑を建てた。

 

 明治二十九年、再びセルビア号が来日し、近海を航海したおり、昔、レキと同僚士官だった艦長のジョンは、乗組員一同を引きつれて上陸し、もう十字架は朽ちてなくなっているだろうと、埋葬した場所に着くと、そこには立派な石碑が建っており、多くの供え物やきれいな花が活けられていた。乗組員たちは、江の浦の人々の親切にいたく感激しながら帰っていった。

 

 その後、数ヶ月ほどして、英国公使館を通じてジョン艦長からの感謝状が江の浦に贈られた。また、英本国からからも青木周蔵外務大臣に感謝状が届けられた。先の太平洋戦争では冷遇もされたこともあったが、平和を取り戻した現在、江の浦の人々は四季の花を供え、お参りを欠かさない。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

冬の川 草も動かず 影もなく

2010年02月02日 | 歴史
 少し前に・・さぬき市の「みろく自然公園」の「弥勒池」へ、うちの横の水路が流れ込むというような話を書いたと思う・・・。事実・・・我が家のすぐ近くの水門から・・・水路に流れ込んだ水が・・・あの・・弥勒池へ流れ込んでいる・・。

 

 我が家の脇から・・・この水路に入って・・・水路に沿って歩きだしてみた。工程はおよそ・・・二キロ六百m・・・。歩いても・・一時間もあれば行けるかなぁと歩きだしたのだけれど・・・。

 

 今の時期だから・・雑草もなくて歩きやすい・・。アブや蚊やムカデやヘビもいないから・・安心して歩いて行ける・・・。まるで・・水になったような気分で・・水路を歩いていく・・。

 小学四年生の時に、社会科の自主学習かなんかで、担任の川田先生と一緒に歩いたことはあるのだけれど、もう・・50年も昔のことだからねぇ・・。全くの記憶がないのも当然のことだ・・。

 我が家から・・・というても、今の我が家からだけれど・・二キロほど・・水路を歩けば・・・。

 

 この・・隧道・・トンネルにぶつかっておしまいになる。これから先は・・道がない。洞門の中には水がたまっていて歩けないし、懐中電灯も用意していない・・。

 意を決して・・隧道の上を越えて行くしかない・・。上は・・山だ・・。

 

 雑木をかきわけ・・イバラを乗り越え・・・。とにかく・・尾根を超さないといけない・・。子供のころには・・・マツタケを探して走り回った山だとは思うのだが・・・全く・・感覚がわからない・・。こんな山で遭難するのは恥ずかしいぞ・・と思いつつ・・尾根を歩いていく・・。イバラがしがみつくし、雑木が腕をひっぱるし、枯れ木が足をすくう。とにかく・・山肌をかき分けて行くしかない・・。

 

 山の中は・・・春なんか? 山ツツジが咲き乱れている・・。ひょっとして、私は極楽浄土に生まれ変わったんか・・? そんな・・アホな・・と思いつつ歩いて行くと・・。

 

 木立の向こうに・・何かが見える・・。水かな・・、池かな・・・。広場かな・・・。ま、お浄土でも地獄でもないらしい・・・。ベンチが見えるじゃないか・・、なんじゃ、あれは・・。

 

 あ・・道じゃ・・道じゃ・・。道さえ見つかれば・・生還できる・・。ま、一時はそう・・思った。ポケットには・・携帯電話もあるし、100円硬貨で700円もあれば、どうにかなるなぁと思っていたが・・・、そんな大げさな問題ではない。単に・・小山を一つ越えただけのことらしい・・。わずか・・300mの山越えでしかない。峠越しでしかない・・。

 

 で・・・1時間あまりかかって・・たどり着いたのが・・先日の・・「みろく石穴」。確かに・・先人はすごい・・。あの岩山をくりぬいて・・・およそ・・・300mもの石の穴を掘って・・・水を通したんだ・・・。どうやって・・方向を決めたのか。高さをどうやって計って掘り進んだのか・・。機械も器具もない時代に・・。どうやって池の方角を見極めたのか・・・。

 

 この地図の・・・下部にある「みろくの石穴」からまっすぐ上のキャンプ場のさらに真上方向から・・・山をくりぬいて・・・水を流しているのだ・・。

 で・・・。

 

 これが・・その・・みろく公園内に立っている・・「軒原庄蔵」の銅像だ・・・。

 こういう・・銅像も・・今日、はじめて知った。ここに、こんな銅像があることすらも知らなかった・・・。

 帰路は・・舗装された道を歩いて・・およそ・・二時間半の冒険は終わった・・。

 そんなこんなで暮れた一日になった・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

み仏の ふところにもどる 初まいり

2010年01月29日 | 歴史
 今日は広島県の安芸教区のお坊さん方が現地学習会ということで、うちのお寺においでになった・・。前から何度も書いているように、うちのお寺には、妙好人(みょうこうにん)と言われるお念仏の信者さんの「庄松(しょうま)」さんという方ゆかりのお寺ということで、たくさんの方がお参りにおいでになる・・。庄松さんのことは・・私のHPの「庄松堂」をご覧くださいな・・。

 

 で・・この日は広島県から八名のお坊さんがおいでになられた。まずは・・「お仏讃」。重誓偈というお経をみんなでおつとめする。その後、うちのお寺の坊守さんがご挨拶と、このあたりの環境とか産業とかの概略をお話し、お寺の概要とかをお話して・・庄松さんの簡単な説明をする・・。ま・・、みなさん、庄松さんについてはよくご存じの方ばかりなもので、「庄松同行概論」・・・みたいなお話になる。

 

 その後、私も少しばかりお話をして・・書院でお茶をお出して・・ま、リラックスしてお話をする・・。で・・昨年から・・「まほろば工房」の事務員さん・・。うまくいえば・・「まほろば自然博物館」の学芸員・・をお願いしている「にゃんさん」にもお手伝いしてもらって、お茶やお菓子のお世話をしてもらって・・。

 

 これが・・その「にゃんさん」ここでも・・時々・・コメントされてる方。私のもう一人の師匠(こういう言い方は適切ではないけれど、若いころからお世話になってる築後先生)のネットワーク・・「だいご」でお友達になった「にゃんさん」と、「山寺の和尚さん」が今回おいでになった会のお世話役・・・というつながりで、今日のおまいりになったもの。

 この「にゃんさん」も、お西(西本願寺)で得度された尼さん。だから・・道服(本当は「ふほう」ていうんだけれど、漢字がわからない)・略袈裟姿でお世話してくれた・・。というよか、無理にお願いしたんやけれど・・。

 

 その後・・お寺から西におよそ四キロほどの所にある・・「小砂説教所」に向かう。私とにゃんさんが先導して・・、ワンボックスカーに乗った八人を誘導して・・。ここには、庄松さんのお墓があるもので、ここにも立ち寄って・・ということで。

 

 ここでは、私が全てのお扉を開いて・・讃仏偈というお経でのおつとめ。ま、ブログをごらんになってる方に蛇足ながらの説明になるけれど、こういうお勤めは・・ご本尊さまの「阿弥陀如来」に対してのおつとめであって、決して、「庄松さん」に対してのおつとめではないので念のため・・・。

 

 で・・、その次は・・「さぬきうどん」ということでセルフのお店へ。お客様のご「要望」で、セルフ方式のマイナーお店・・・ということで「穴場的」なうどん屋さんへご案内。普通の一般店のおうどんならば、どこででも食べられる・・ということで、普通の人では見つけられないようなお店ということで、「手打ちうどん杉本」さんへ。

 

 最初はとまどったらしいけれど、どうにか皆さん、ちゃんと注文できて、トッピングもできて、お会計もできたようです・・。

 

 私は・・一番簡単な「かけうどん小」にお揚げを載せて・・280円。あっさりとしたお味でさっぱりとこなして・・。

 

 ま、説明不足もあったし・・と、反省することは多いけれど、まぁ、一通りご案内ができ、皆さんも満足されてお帰りになられたようで一安心・・。やれやれですわ・・・。

 

 お店の脇の川土手に咲いていた蝋梅がかすかに春の香りを漂わせていた・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

犬も子も 猫も遍路や 梅の花

2010年01月17日 | 歴史
 今朝も霜の朝にはなったけれど、空気は冷たくもないし、風もほとんどない。そうは言っても・・・朝の間は寒そうに思えて・・・ぽちの散歩も・・・8時過ぎにならないと外に出る勇気は出ない・・・。

 

 で・・、散歩が終わると・・・「今日はリベンジやな・・」という気になった。暖かいし、天気もよさそうだし、風もほとんどないし・・・ということで。デジタル一眼レフも機嫌が戻ったし・・・。というか・・・こんな日に我が家にいてもなぁ・・と思ったし。今日はけいこばぁがいるので、お勉強の邪魔をしてもよくないと思ったし・・。

 

 だから・・昨日と同じように屋島山頂に上がって・・・屋島寺に入ったのだ・・・。で、おもむろにデジイチを構えたら・・・。カメラが動かない・・・。「なんじゃ、これは・・。」

 よほど、私はお寺に嫌われているんじゃろうか・・。先ほど・・というか、家を出るときにはきちんとカメラは動いたのに。画像もばっちりと残ったのに・・。原因は・・・電池切れらしい・・・。単三の乾電池が消耗してしまったのらしい・・・。でも・・屋島寺内にはお店はないし、売店もない。

 で・・手持無沙汰だから・・・おみくじを引いてみた。100円硬貨を入れると・・自動販売機みたいにおみくじが一個・・転がり出てくる。この「おみくじ」も「おみおつけ」みたいに・・「くじ」+「御(み)」がついて「みくじ」、それにさらに・・「「御(お)」がついて・・「御御籤」で・・「おみくじ」になったものらしい。

 その・・「おみくじ」では・・「大吉」・・。どこがやねん・・。電池がなくて困ってるんやけれど・・。

 「デジカメの 電池なければ ただの箱」・・・。仕方がないので・・・屋島寺の宝物館に入った・・。ここも初めてではないのだが、せっかく来たのだからと入ってみた・・。屋島山頂に見るべきものはないし、水族館をのぞいても仕方がないし・・・。あ・・、これらの写真は・・コンパクトデジカメでの撮影になっている。だから・・全く・・写真がないということではない。

 

 拝観料はおとな500円。館内は撮影禁止だけれど、撮影するようなものもないし、電池のきれたデジカメでは役に立たない・・・。館内には重要文化財クラスの仏像がずらりと並んでいる。さすが・・屋島寺やなぁと思うようなものばかり・・。

 二階には源平の絵巻物とか屏風とか・・源氏の白旗とか・・刀ややりとかを展示してある。ま、すごいものらしい・・・。価値はよくわからんのだけれど。

 で・・お寺を出て・・みやげもの屋さんで尋ねてみるが・・乾電池は置いていないという。それじゃだめじゃん・・・。よほど・・私はお寺には縁がないのかも知れないね・・。

 そこで・・・時間になったもので・・うどん屋さんを探して走った。今日は・・日曜日だからなぁと思ったが、牟礼町の「大木戸」さんが開いていたので入ってみた。

 

 で・・店内のメニューを眺めてみるが・・・「しっぽくうどん」はない。釜揚げも湯溜めも食べたしなぁ・・と悩んだけれど・・タダの「かけ小」のみになった・・。210円。あっさりとしたものだ。ネギが入っただけのうどんに、天かすを乗せ、削り節をすくって乗せて、おろしショウガをひとすくいして乗せ、ゴマをすって乗せて・・・できあがり。

 

 麺はつるつるでなめらか、やわらか・・。お出汁はまろやかで・・全部・・飲み干してしまいたいほどのお味・・・。ま、全部・・飲み干してしまうのだけれど・・。地元密着型のお店はこうでなくちゃね。特に・・ああだ、こうだというおうどんではないし、行列ができるほどのお店でもないが・・こういう素朴な味がたまらない・・・。

 

 さて・・、リベンジのリベンジで・・五剣山八栗寺にもやってきた・・・。で・・・、マイカーの中でデジカメの電池を確認したら、ちゃんと動作するものだから・・予備の乾電池も持たずに・・・山道を登ってきた。今日は・・・ケーブルカーなしで登山をしながらダイエット。

 登り坂の遍路道はきつい・・・。はぁはぁ・・ぜいぜい・・と大息で登って来て・・・カメラを取り出すと・・・動かない・・・。「なにぃぃ・・。どうぅなってるん??」よっぽど、私はお寺に嫌われているのかしらん・・・。

 

 で・・・境内を駆け抜けて・・・ケーブルカー乗り場の売店に走ったのだけれど、乾電池は置いていない・・とのこと。参道わきの土産物屋のおじさんに目が会ったもので、「おじちゃん、乾電池の予備・・ないかなぁ・・」というと、家庭用の乾電池を探してくれた。単三の四本入りのパックを・・・いくらで売ろうか・・というので、「250円」て、買ったのだけれど・・、わずか・・十枚くらい写しただけで・・電池切れになった・・。

 普通の家庭用の乾電池では・・デジタル一眼のバッテリーにはならんのだろうか。それとも・・カメラ自体がおかしいんやろうか・・・。わけのわからぬままに・・・境内を歩いたものだった・・・。

 

 このお姐さん・・。お線香の煙を身体に受けているの・・。お線香を身体に浴びるとおかげがあるのだそうだ・・。それって、本当なん・・??。頭にかけると・・頭がよくなる・・。肩に浴びると肩こりが良くなる・・。腰に浴びせると腰痛が治るって・・・。ふーーん。そういうのんは・・よくわからんな。線香の煙を浴びても・・美人にはならんと思うけれど・・・。お大師さんに文句を言うつもりはないけれど・・。

 

 そういうことよりも・・・私の興味を引いたのは・・これ。これって・・何なん??

 ま、大根だってことはわかるんだけれど、このあたりの・・狛犬の台座とか、灯篭の台座に・・この大根のマークが刻まれている・・・。こういう・・彫刻はここだけでしか見られない・・・。なんていう意味なんだろうかね・・・。

 昨日も書いたのだけれど、四国霊場も広いのだが、ここは・・一面・・特殊な札所、特殊な霊場だなぁと思った・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

正月の 独楽が止まって 酒が尽き 

2010年01月01日 | 歴史
 むかしの元日は登校日になっていて、紅白歌合戦を聞いていて、眠たい思いの中、寒さをものともせずに登校したものだった。年代にもよるが、まだ、テレビのある家は少なく、ほとんどがラジオで歌合戦を聞いていて、「赤が勝ったんぞ」とか「白が負けたなぁ」と話をするのが挨拶のようになっていた。

 小学校の講堂で年賀式が行われた。紋付羽織に袴姿の町の有志や、背広姿にきちんとネクタイを結んだ多くの人々が出席して、生徒たちとともに新しい年を寿ぐ。
 だが、来賓の人たちの面白くもおかしくもない話を、窓の隙間から吹き込んでくる寒風や床下からの冷気が吹きあがって来る中で、ながながと聞かされるのには閉口した。

 式の最後は全員声高らかに「元日の歌」を歌った。

  ♪ 年の初めの ためしとて
     終わり無き世の めでたさを
    松竹立てて 門ごとに
     祝う今日こそ 楽しけれ ♪

 文語体の歌を、ところどころ面白く替え唄にして遊ぶもので、それが思い出されて笑い声を噛み殺すのに苦労しながら歌った。

  ♪ 年の初めの ためしとて
     終わり無き世の めでたさを
    松竹ひっくり返して大騒ぎ
     あとの始末を 誰がする ♪

 あのころはオルガンの伴奏で、オルガンを弾く女の先生は引きずるような袴をはいていた。そして、式の帰りに紙袋に入った紅白のおまんじゅうとかお餅がもらえた。これをもらいに寒いのを我慢して登校したのかもしれない。

                 

 元日の朝は・・とにかく早く起こされた。そのころ、我が家には水道がなくて、台所の水がめから氷を割って顔を洗うか、近くを流れる小川の水で顔を洗ったし、歯を磨いた。そして・・家族全員が「飯台」という四角な座卓に座る。母がお雑煮をついでくれて、一同が整列すると、祖母が「おめでとう」と挨拶をするとみんなはお雑煮にお箸をつけられた。父はお神酒だかおとそだかとおちょこでお酒を飲んでいた。

 その時に、祖母や母からお年玉をもらった。そして、兄弟三人はそろって登校準備をして学校に向かうのだった・・。
 
                

 式から帰ってくると、あとはこどもの世界だった。「番屋こたつ」という丸い土でできた器に炭火を入れておわんのようなふたをしたこたつを入れた布団にもぐりこんで漫画本を読んだり、少年雑誌を読みふけったりしたものだった。とにかく、元日にはどこにも出かけてはいけないと言われて、こたつの中で遊ぶくらいなものだった。そのころにはテレビなどないし、ラジオも子供用の番組はほとんどなくて、自分で空き箱の中に入って、テレビごっこやラジオごっこをするのも楽しかった。

 独楽回しや凧上げは冬の間ならばいつだってやったし、そんな遊びしかなかったから、特にお正月の遊びと言うものではなかった。少年雑誌の付録のすごろくや福笑いなんかは12月中にやってしまって飽きてしまっていた。雑誌はいつも情報が先取りされてやってきたものだった。

 コマまわしはもっぱら男の子が幅をきかせていて、秋から冬にかけてはまずそれで遊べた。コマはあのころの私たちにとって、きわめて大切な持ち物だった。鉄の輪がはまったコマが多かった。それをヤスリやコンクリートで心棒を削り、ふらつかずにまわる座りの見事さなどを競い合った。心棒をあまり鋭く磨いているものだから、こけたりけんかをしたりすれば、その心棒が身体に刺さって痛かったりした。

 それと「じゃんけん」というメンコだった。メンコの片隅に「グー・チョキ・パー」というマークがついていたから「じゃんけん」と言ったのかも知れない。それに「おいっこ」という「ビー玉」遊びも子供の必需品だった。


冬の海 きらめいた一瞬を 辿るたび

2009年12月26日 | 歴史
 牛島のガイド役を頼まれているもので、前日には早くから寝て・・というても22時を過ぎてから寝たのだけれど・・・。で、目覚ましを六時にセットして・・・。

 でも・・五時半過ぎには眼が覚めてしまって・・。それから寝ると寝すぎてしまうかなぁと思って起きてしまった・・・。坂出港に8時半集合・・・ということだから・・逆算して・・・計算をして・・。

 でも・・なんだかんだとやっていたら・・六時半過ぎになってしまった・・。それから坂出港に向かった・・・。その途中で・・・朝うどんが食べたくなった・・・。こんなときにね・・。

 

 ところが、今日は土曜日だし、朝の七時過ぎとなると・・なかなか・・朝うどんのお店が思い浮かばない。その思案の挙句・・・この「なかにし」に寄ってみた。

 ここもしばらく立ち寄っていなかったら、今までの駐車場の奥に広い駐車場ができていた。民家を買い取って整地をしたものだろうか・・。 で・・「一玉」という小さなどんぶりを取ってカウンターに置くとうどん玉を一個いれてくれる・・。そんだけ・・。それで会計・・。200円。 あとは自分でテゴでうどんを温め、出汁をかけて、ネギや天かすをトッピングして食べる・・・。

 

 好き好きなんだけれど、やや太くて・・小麦粉が匂うようなうどんはあんまり好きではないし、なんとなく田舎っぽいうどんの味だ。お出汁もやや薄いような気がする。だから・・・少しばかり醤油を回してみた。ま、多くの方が・・これほどに朝早くから集まってくるのだからおいしいに違いないのだが、なんとなく私には相性が良くない・・・。

 おなかをおこしてから・・・坂出港を目指す・・。

 

 坂出港には8時過ぎに着いた。これが「特船:とくせん」と呼ばれる「チャーター船」、塩飽史談会の高見・佐柳島研修のときにもこの船のお世話になった「第五あさひ」。これで一日、島巡りの旅に出る・・。

 で・・塩飽本島の笠島港に入る・・・。ここで町並み保存地区や真木(さなぎ)邸を見学し、法然上人ゆかりの専称寺におまいりし、人名年寄のお墓などを見学して・・ふたたび あさひ丸に乗って島の裏側の「屋釜」地区に入る・・。

 

 ここも観光のために立派な砂浜が整備され、ホテルのような建物も見えるけれど、客足が遠のいたためか廃墟のような寂しい風景になってしまっている。そのあたりにも保養地や別荘のような建物が残されているが・・・ほこりにまみれ、雑草に覆われている・・。

 そんな中に・・石がある・・。

 

 この普通にあるような石なんだけれど、石の上側に・・・矢穴という・・人工的に刻まれた穴の跡が残るし、石の左手には・・・①という記号と、三という記号が刻まれている。これが・・・大坂城や江戸城、皇居などの石垣に使われたものと同じ石材なんだと・・・。

 

 この巨岩には「田」という字が刻まれている・・・。こうした石材が至る所に残されている・・・。これらの石の説明には「城石研究会」の山地先生ほか・・。

 江戸城とか大坂城の残石が・・・丸亀城の石垣にも使われているのだとか。

 

 一行は・・・ここで昼食のお弁当を食べ、休憩のあと・・、牛島探訪の旅に移ったのであった・・・。

 あとは・・説明に重点をおいたために・・・何の写真も証拠もない・・・。

 で・・・坂出港には15時半に戻って解散・・・。私は孫たちが待っているもので反省会はパスさせていただいて我が家に急行・・・。夕食に間に合ったことだった。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

ベランダは 小雪が休んで 行くところ

2009年12月18日 | 歴史
 今朝はまた冷え込んで・・・気温が3度という冷え込みようだし、空は曇ったまんまで・・・重苦しいし、肌寒い・・・。寒いっていうのが苦痛になるような年齢になった・・・。

 母のさっちゃんが市民病院に午前八時に入ると順番が早いと言うので・・・六時前から起きて準備をして・・、朝食も早くに食べて・・。八時前には病院へ送り届けた・・・。

 私はそこから戻ると・・・白衣だの足袋だのを用意し・・色衣や五条袈裟を用意するんだけれど、奥方の片づけがいいものか・・・衣の置き場がわからない・・。衣装一式はまとめてあるんだけれど、夏用と冬用が切り替えられていないものだから混乱してしまう・・。

 

 仕方がないので・・そのあたりのものを車に投げ込んで・・・さっちゃんの病院へお迎えに行く・・・。こんな日に診察を受けなくてもいいのにね・・・。で、さっちゃんをお迎えして我が家に送り届けて・・・一目散に・・うちのお寺へ・・。

 今日の法要は・・午前十時から・・・。でも・・役僧・衆徒は早めに出勤して準備をしなくては・・・。

 

 今日は・・「報恩講」・・。宗祖親鸞聖人の御命日の法要だ・・。ま、そうは言っても・・・偉大な人の御命日だから、宗派によって地域に寄ってさまざまな・・・法要になる・・。「今日のこの日」って・・決められるんだけれど、その日に全国で法要をしたら大変になるので・・・分散して・・法要になる・・・。

 ということで、うちのお寺では・・今日が報恩講・・・。お寺に寄っては「ご正忌」とか「ほんこさん」とか・・・いろいろな呼び方をするらしいんだけれど。

 

 午前の部の法要が行われ、法話があって・・・昼食・・。お寺では・・「おとき」というのだけれど、おうどんとお寿司がお接待された・・。

 

 これがなんとまぁ・・・、しっぽくうどんなのだ・・・。具とかお出汁はおいしかったが・・・麺が少し柔らかすぎたかな・・。大勢だから・・タイミングがうまく調整できなかったのかも知れない・・。最近は・・すっかりと・・しっぽくうどんモードだね。

 

 これが今日の法話の先生の安本師・・。安本一正師匠の息子さんだ。この先生に・・私らは「仏説阿弥陀経」の講義を受けた・・・。恩師のうちの一人やね・・。法話というのは・・早く言えば・・「お説教」やね。私らの場合には「法話」というのだけれど、お釈迦様の教えを・・わかりやすくお話してくれるもの。

 

 これは・・院主さんの二男坊が京都から戻っていて・・・臨時の法話をしてくれた・・・。荒削りだけれど・・ま、経験を積めばいいお坊さんにはなれそうだな・・。

  

 ということで・・・お念仏三昧の一日になったことだったし、たまにはお坊さんもやってるよ・・・みたいな一日になった。

 で、明日には丸亀市で・・例の映画・・「青き島よりGO!」の映画を見て・・・広島に戻って・・・弓の弦の修復をして・・・弓の練習の調整をしておきたいと思う・・・。来週の頭には戻れると思うのだけれど・・・。

じゃぁ、また、来週に会えるといいね。

 

 

自然薯を 売る声高く 道の駅

2009年12月13日 | 歴史
 文化祭に展示をした・・「咸臨丸乗組員水夫の墓マップ」を・・丸亀市役所広島支所に掲示をしたい・・と、自治会長さんがいうもので、明日、その搬入に行こうと思う・・・。その横瀬さんの言うことには、「十一人中八人のお墓はわかったが、後の三人についての情報を求めるためにも、支所内に掲示をしておきたい」という・・・。それはそれでいいと思った・・・。

 ところがだ・・・。「あとの人の地図も作ってほしい・・」とおっしゃる。つまり・・塩飽から乗り組んだ・・35人中の広島以外の人のお墓の地図も合わせて掲示をしたい・・・というのだ。塩飽本島やら櫃石島やら瀬居島やら佐柳島やらの人のお墓マップを作る・・・ということだ。

 で・・今日は朝から・・その作業にかかりきり・・・。

 

 ま・・雲をつかむような話なんだが、広島分ができたのだから同じようにやればいいのじゃないか・・と始めてはみたんだけれど・・。本島だけでは・・模造紙一枚にはならない・・。そこで・・・残りの島の分をまとめて一枚分に収めてはみたのだけれど・・。

 その合間に・・・讃岐竜馬会の野藤先生から・・12月26日の本島・牛島研修の打ち合わせの電話が入ったり、菊池君のライブの話が入ったりで・・なんだかんだと・・。

   

 ま、牛島訪問と研修はお天気次第・・・。こちらの資料はほぼ出来上がっている。あとは人数分の資料を用意すればいいくらいなものか・・。

 牛島と言えば・・「丸尾五左衛門と無間の鐘」、それに・・「極楽寺と無間の鐘」・・・あとは聖神社・・・。あと・・咸臨丸乗組員の郡家滝蔵さんのお墓というのが定番だけれど、「みかんの島」と「牛島メダカ」というのも新しいメニューかなぁとは思う・・。インターネットで検索しても・・そういう情報は見当たらない。

 で・・、午後からは・・・「屋内演奏小僧」の菊池君が、施設訪問してのお誕生会兼クリスマス会のイベント参加・・。

 

 本当は・・「路上演奏小僧」なんだと思うけれど、今日は特別に「屋内演奏小僧・・」赤とんぼとか・・・きよしこの夜・・・とか・・・アンコール曲には・・「川の流れのように」を演奏したりして・・。

 

 利用者の方も手拍子を打ったり・・・口ずさんだりして・・・。我が家もけいこばぁとかさっちゃんも一緒に行って・・・。私はカメラマンだったのだけれど・・。

 

 この・・菊池くんは・・ここでも何回か紹介してるけれど、主に徳島市内で路上ライブをやってる人で・・・お母さんがここの施設にお勤めだとかで、ときどき、演奏会をやってるみたい・・。

 

 で・・、私が・・最後に花束贈呈しておしまい・・・みたいな。なんか、最後の盛り上げ方が失敗だったかなぁ・・。

 で・・、戻ってからも・・そのマップの仕上げ・・・。一応は形にはなったんだけれど、残った空白を・・・どうやって埋めようかなぁと・・・。

 ま、明日の午前中には片づけて・・お昼のフェリーには乗り込みたいなぁとは考えているのだけれど・・。

 

 そんなんで・・、また、しばらく・・さぬき広島に行ってきますね。でも、18日がうちのお寺の報恩講なもので、その前日までには戻らないといけない・・。

 

じゃぁ、また、来週に会えるといいね。

枇杷の花 無言の白に 励まされ

2009年12月11日 | 歴史
 昨夜から・・・ずぅぅっと・・雨だった。今日・・・一日・・雨だった・・・。

 ま、雨だろうと晴れていようと・・・問題ではない暮らし向きだから影響はない。今のところ・・野菜作りとかにも影響はないし・・・。

 でも・・・、気分的には・・あんまり・・うれしくはない。

 

 テレビドラマでやってるのかどうかは知らないが、定年退職したら・・肩書きがなくなって・・・腑抜けみたいになってるおじさんとか、スーパーのベンチで日がな一日座ってるおじさん・・・みたいなものを見かけるのだけれど、私もいつか・・そういう風になるのかなぁと思っていた・・・。

 でも・・・実際は忙しい・・・。肩書きだって、会社勤めの時よりも多くなって・・・「塩飽史談会会員」「香川狛犬研究会会長」「咸臨丸子孫の会特別会員」「讃岐龍馬会塩飽社中会員」「佐柳ふるさとの会臨時会員(?)」「まほろば工房特別代表」「在家仏教暁光庵主宰」・・・・わからんくらいにある・・。肩書きがなくなって寂しい・・・みたいな印象は全くない・・。今日はどの名刺を使おうか・・みたいに忙しい・・・。名刺印刷ソフトが大活躍だ・・・。自分で印刷するのだから・・なんだって作れるのだし・・・。

 

 「あんたはいつだって・・やり放題ね・・」と、けいこばぁは言うが、確かに運がいいものかどうか・・、どこでもここでもやりたい放題みたいなところはあるかな・・。そのツケが来る時があるとすればこわいかな・・。ま、その時にはその時だな・・・。

  


 さて、今日のお昼は・・三木町の「うええだうどん」・・。

 漢字で書くと・・「上枝」なんだろうと思うけれど、これを「うええだ」と読むか、「うえだ」と読むのかが難しい・・。ここの場合には・・「うええだ」らしい。

 

 ここには・・セルフうどん・・と書いてあるが・・。あ~・・、ここには書いてないねぇ・・。どこで見たんだろ・・。

 お店に入って・・・メニューを見ると・・・ざるとかてんぷら・・とか・・わかめ・・・みたいな一般的なメニューばかり・・。仕方がないから・・「かけ小」って、注文をすると・・「しっぽくもあるんよ・・」と言われたら・・「あ、じゃぁあ、それもらいます」と言うしかない・・。メニューも時期的に修正しておいてくださいね、おばさまぁ・・。

 

 こうやってみれば・・普通の一般店のうどん屋さん・・。で・・カウンターで注文をして待ってると・・「あ、お席へ持って行きますよ~」というので・・適当にテーブルについて待っていた・・。これじゃぁ・・一般店風・・。しかも料金は先払いと書いてあるのに後払い・・・。

  

 このしっぽくうどんは・・400円。ま、おいしければ何でも許せるか・・。でも・・、ここは・・一般店なんだろうか、セルフのお店なんだろうかね・・・。

 昨夜は・・・試験に合格したよぉ・・と大騒ぎしたけいこばぁ・・だったのだけれど、受験番号を間違えていて・・・一問だけ間違った・・・とかで、今日は・・がっくりムード。あれだけ頑張ったのに・・・一問間違って・・・不合格らしい。

 今晩は・・・力尽きたのか・・・夕方の六時から寝てしまった・・・。

 あのとき・・・極楽寺の無間の鐘を鐘いたからなぁ・・。

 でも・・命まで取られたんじゃないのだから・・来年頑張ればどうにかなるじゃないのかな・・・。そこまで頑張るかどうかなんだけれど・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。  

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