住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

350  「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (42)

2007-05-14 09:46:17 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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350 神社
徐福集団は、倭人との交流をどのように始めたか興味あるところである。
倭人はおおむね純朴で誠実であったとはいえ、そうでないものも居た。
やはり、警戒を怠るわけには行かなかった。

彼等は2~3隻の大きな船を連ねてやって来た。
仮に2000戸の港町だったとしよう。一戸に平均10人居たとしても、20000人である。その6割が大人だ。
その半分が女性だ。大人の男子は6000人だ。その2割は老人だ。壮年青年は5000人。

電話があるわけではない。
町としての組織だってあったかどうか。
抵抗しなければ、酷いことはされないとわかれば、だれも負ける戦争を自分からするものは居ない。

天人は、倭人の通訳を通して絶対服従を要求した。
天人の前では、平伏させた。
それは、征服者が最も安心できる応対で、中国の礼法から来ている。

ここで植えつけられた習慣は、江戸時代にまで続いた。大名行列に対して土下座したのもその名残だ。
初期の国頭、国守はすべて天の一族であり、中世の大名も大部分がその末裔だからである。

軽々しく抵抗の素振りを示した部族では、直ちに部族長が捕らえられ、服従を迫られた。
強行に抵抗すれば「まつろわぬ者」として攻め滅ぼされた。
それらの噂は、すぐに全土に広がっていった。

「まつろう」は「服従する」で、祭り、政(まつりごと)、奉(たてまつる)につながっている。

末盧國は、おそろらく初めての「まつろう國」だったのであろう。

天人の訪れたところでは、天人は、倭人に加勢させて、木造の神社を作らせた。
その建築様式は、倭にはないもので、材木が主であった。材木は鉄の道具を用いて、柱や板に加工されたものが用いられた。
高層建築が可能になったのである。床が地表より高くなっているのが大きな特徴であった。

倭人は木を使ってもほとんど丸太のままで、壁は土の盛り上げである。草葺の屋根が大きくその土壁も覆うような形であった。

神社は小さい集落においては祠程度の小さいものであることも珍しくなかった。
社の周囲を切り開いて広場として境内とした。入り口には必ず、鳥居をおいた。
境内の境には注連縄を張って、それから内には無闇に入らないように村人に徹底させた。

天人は鉄の道具を貸し与え、天人のために田や畑を開墾させた。種を与え、それを播かせた。
その収穫の何割かを働いたものたちに取らせた。

天人に、知らせたいことや、願い事があると、絵を描いて神社に奉納した。
すると、天人が何日か、何十日か、あるいは何月かして、来た時にそれらを見て、病気であればクスリを処方した。
植物の種を与えたり、糸のつむぎ方、機織のしかた、その他、竈の作り方、井戸の掘り方、トイレの作り方から、何でも教えてくれた。
奉納されたされた絵馬を見て、見所があるとされたものは家来になることもできた。

天人が来た時は神社に宿泊し、村人が必要な食料を提供した。
神社には、倉庫が置かれ、撮れた食料の保存や、共通の農機具などが保管された。

神社は、天人の宿泊所であり、天人同士の連絡所(郵便局)であり、村人の集会所であり、子どもたちの学校であり、ハローワークであり、結婚式場であり、実に多機能な施設であった。
出生死亡も届けられた。村長(むらおさ)に、それらをきちんと把握させ、報告させた。それらは、租庸調の基礎であった。

また、国民を養う政策立案の基礎となった。
数えること、それが、管理の始めである。



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8 コメント

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2000戸 (自然を尋ねる人)
2007-05-14 10:39:53
 少しだけ意見を言えるなら!

当時の倭に集落は多いところでも100軒あったかなかったか、隣の集落までは1キロ以上は離れていたようだし、集落同士がお互い反目して諍いと勢力争いの時2000戸の集落があったとは想像しがたいのですが!
当時でもやはり男が多いみたいだし。
話は変わってホタるの世界雄と雌ではどうもオスが多いらしい、でも餌が豊富だとメスが増えて光る数が減るそうです。
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神社 (かのこ)
2007-05-14 11:18:55
guuchanさん今日は。
今でもどんな山奥の村にも神社があり 祭りが行なわれている原点はそこに・・。

かのこの子供の頃はお寺さんが
そのような役目をして記憶が微かに残っています。
父の膝の上で色々のお話やゲントウ等を見ましたね。

鳥居は鳥に対する憧れから来ているそうですね。

現在は先生と生徒もお友達になり ひれ伏すことがなくなりました。
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自然さん~こんにちは (guuchan)
2007-05-14 11:27:52
 仰るとおり、2,000戸の集落といえば相当大きなものです。
 魏志倭人伝の中では、女王國70,000戸、投馬國50,000戸、奴国20,000戸、末盧國4,000戸です。壱岐國3,000戸、対馬、伊都國、不彌國、各1,000戸。

 平野の大きいところでは、100戸単位であっても、必ずしも隣の集落と本質的な敵対関係にあったとは考えられません。本家、分家というように、家が分かれて核となって、そこにまた集落が発生し大きくなる。
 兄弟でも地境の争いは熾烈を極めますから、戦争になるでしょう。戦争が起こると、途中で和睦を結ぶこともあるでしょうが、大抵は強い方が負けた村も併合する。

 ですから、100戸の単位がいつまでも100戸のままであるということのほうが稀であろうと思います。

 徐福の時代、どうであったか?
 今は魏志倭人伝から、450~500年遡って推定するしかありません。

 2,000戸のところが、そう多くはないにしてもなかったとは言えないと思います。

 小さいところは、もっと抵抗のしようはなかったでしょうから、規模の大きい場合想定してみました。 
 
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かのこさん~こんにちは (guuchan)
2007-05-14 11:51:48
 お寺は神社より後に入ってきましたが、数が増え、施設が増えると、同じような役割を果たしたと思います。

 鳥居が鳥に対する憧れ?
 guuchanによれば、それは単に文字から想像した根拠のないものです。
 
 鳥居という言葉や、文字より先に現物として存在したと思います。

 神社を作ったとき、神域を作ったとしても、門がなければ、格好がつきません。

 それについては別項を掲げてもいいと思います。
 たいして書くことは何のですが。
 
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まつろう (ゆっきん)
2007-05-14 16:42:52
「まつろう國」の説明はすらーっと流されましたね。

和語と倭語と漢語と秦語の組み合わせで地域名はできたのでしょう?当時の発音と現在の発音はかなり違うと思いますがどうなんでしょうか。

「わ」の段は「を」の二つだけ残ってますよね
もちろん大和言葉より前でしょうからもっと変化があったのではないでしょうか。

韓国では倭を「わ」でなくウぇと読みますね。

当時の人間の発音を漢字に置き換えただけではないんですかね。
松のある浦、が「まつろう」に


たとえば「原」の読みも地域によってかなり違うし。
倭(卑しい言葉でしょう?)と和の発音は同じですよね。中国から見れば東夷の地名です。

中国側がつけたなら故郷の地名をどこかにつけるのではないですかね。

佐賀平野の周辺の地名が奈良周辺にあるように。

まつろう、祭り、政などの流れはよくわかりましたが。

まとまらないままのとりとめもない書き込みですみません。
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ゆっきんさん~こんにちは (guuchan)
2007-05-14 18:07:32
末盧國は松浦國だといいたいのですね。
 もちろんそういう見方もあるでしょう。

 末羅國なら松浦でもいいでしょうが、MATUROですから、「まつろう國」というところから来ているのではないかという考えも出てくるのです。
 安岡が「やすらうが岡」が由来だという考えです。
 それに松原が自然に存在したとはguuchanは考えていません。松は撰んで植えられ、松原が育成されたと見ています。
 
 まつろう国を日本的に表記するときに松浦に変えられて表記され、そのように読まれるようになったと思います。

 倭については何を仰りたいのかよくわかりません。
 「漢倭奴国王」という金印を貰っています。
貰ったのは天人の国王です。
 この天人は、自分を倭人とは思っていないでしょう。倭の地域の王であり、その呼び方が漢流だから嫌だとか思わなかったと思います。
 JAPANが嫌だといっても、英語で言う時はJAPANでないと通じないのと同じです。

 中国語でつけた地名としては、沢山あります。
 中国風では筑、肥、豊、薩、越、信、紀など一字の古い国名や地名はそうだと思っています。

 その間々に、由来つきでYAMATO言葉から来た地名が入ってきていると思います。

 これらの地方や国名は、倭人にその概念がありません。
 末盧國にしても、倭人に国という概念が未だなければ、国名は生まれません。
 他国との区別において相対的に生まれるものですから、名づけるのは倭人でなくて天人になります。

 卑近な地名は、倭人が使っておればそれを使うことになります。自分たちで、勝手に名前をつけても倭人に通じません。

 地名の発生とはそういうものではないでしょうか? 
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なるほどねー (ゆっきん)
2007-05-14 22:01:46
和が集まり大和で、和を倭といやしめた文字にしているのではないか。力関係で仕方がないけれど。
日の御子を卑弥呼との文字にしたように。

100国大乱と有るのは魏は地方集団を国と解釈していたからか、伝え聞いた者が国と考えたほうが良いと考えたらだはないのでしょうか。つまり国は和にすでにあったと思うのですが。

今で言うお国(地域)言葉というように。
故郷を国(くにでありこくではない)というように。
国という言葉は外来語でしょうが概念はあったのではないでしょうか。
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ゆっきんさん~こんにちは (guuchan)
2007-05-15 07:44:03
YAMATO という呼び方は徐福以前からあったかもしれません。
HAYATO に対する呼び方ですね。
HAYATO が鹿児島方面であるとしても、訛りの違いはあっても、基本的に日本語を使っているので人種的な違いはないものと思います。
徐福集団にもHAYATOとYAMATOの区別はなかなか分からなかったでしょう。

倭も大和もYAMATOと振り仮名をつけることがありますから、そう拘ることはありません。

陳寿が倭人伝に日御子と書いても、HIMIKOと読んでくれる人は居ないでしょうね。
ジツギョシのようになって、音は意味を成さなくなります。それと同時に、徐福集団以外にどれほど、漢字文化が浸透していたか分かりませんから、文字を見ても分からないでしょう。
 
 100國というのは、それぞれが、前漢あるいは後漢の時代にそれぞれが朝貢しているでしょうから、そういう認識になっていると思います。
 
 KUNI という倭語でしょう。地域社会をKUNIと呼んでいたと思います。

 それが用いられていた社会には、郷、州、地方の諸國、統一国家などを意識して区別する社会ではなかった。郷しかない社会だったといえないでしょうか。

 そして、国の概念では中国でも一定ではなかったと思います。政治制度や歴史化によって定義されるまでは固まらないのではないでしょうか?
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