前回記事では子ども達に相手にしてもらえなかった私ですが、当ブログの読者なら私がなにを言いたかったか分かるはずですね。そう、ドラえもん自身が世界の中に居るのだから、世界がドラえもんの中に入ってしまったら、ドラえもんももポケットの中に入ってしまうことになってしまいます。つまり、ドラえもん自身がドラえもんのポケットの中に入ってしまうことになります。だから、私は子供たちに、「その時ドラえもんは一体どこにいるの?」と訊ねたわけです。蛇が自分のしっぽから自分を丸呑みしてしまったらどうなる?というのに似ています。
ちょっと頭のいい子なら、「ドラえもん以外の全部が入るんだよ。」と言うかもしれません。それでもやはり、「その時ドラえもんはどこにいるのか?」という問題は生じます。ドラえもんが立っている地球そのものがポケットに入ってしまったら、ドラえもんは一体どこに立っているというのでしょう。地球がポケットに入るときには、やはりドラえもんも一緒に引きずり込まれそうです。
私達は矛盾したことを思い描くことはできません。蛇が自分自身を全部丸のみにしてしまうという様子を、最後まで想像できる人はいないはずです。ぼくが飴玉を1個もっていて太郎君が2個もっている時、二人の飴玉の合計は必ず3個であると私は認識します。私たちは本来は論理に逆らって考えることはできないのです。
論理に逆らって考えることができないのならば、なぜ私達は間違ってばかりいるのだろうということになります。それには二つの理由があると私は考えています。ひとつは正しい事実認識をもてないということ。これは能力の問題で、我々はいつでも錯覚とか勘違いをする可能性があります。もう一つは我々は言語を使って思考するということにあると思います。
例えば、「ドラえもんのポケットにはなんでも入るんだよ。」という時の、「なんでも」には我々が今までに経験をしたことがないものまでが含まれています。つまり、発言した当人は自分の知らないことについてまで言及しているわけです。実際には対象をとらえきれていないのに、言葉上では対象として把握しているかのように操作できてしまいます。
一般に「なんでも」、「すべて」、「世界」という言葉には問題がありそうです。「なんでも突き通す剣」と「どんな剣をも撥ね返す盾」というのは言葉では簡単に言えますが、実際には存在しえないものです。今売り出し中の哲学者マルクス・ガブリエルの著書に、「なぜ世界は存在しないのか」という奇妙なタイトルの本があります。私も最近それを読みました。しかし、あらゆるものがそこに存在するという、そういう意味の「世界」というものは存在しない、と言うのは当然のことでもあるわけです。