前回記事で、禅は「なんの媒介も無しに『一挙に世界を了解』してしまう」と述べた。このことについて少し説明したいと思う。一般に、真理というものは「見えているもの」の背後にあると考えられがちである。だから私たちは考える。しかし、禅仏教はこのような考え方を否定する。事実というものは「見えているもの」以外にはないのであるから、それこそが真実と受け止めるしかない。それが「真実は現前している」という言葉になる。
仏教経典には、「無」「不」「非」という否定を意味する字が多いので、なんとなく否定的で神秘的な思想であるかのように受け止められるが、否定するのは分別や懐疑であって、実はとことん現実肯定の思想なのである。そういう意味で、「デカルトの懐疑」に始まる西洋哲学とは対極にあると言える。
デカルトはすべてを疑って、ついには「考える私」つまり純粋な自己に到達した。しかし、仏教に言わせればそんなもの存在しない。デカルトは「考える私」が存在すると考えたが、そこには「考え」があるだけのことである。第一、仮に「考える私」があるとしても、依然としてその他のことは疑わしい「懐疑」のままであるしかない。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
有名な「正法眼蔵」の一節である。 自己というものを突き詰めていけば、結局(純粋な)自己というものは存在しないということに行きつくのである。万法とは森羅万象のことつまり「見えているもの」のことである。ここで言う「見えているもの」とは、もちろん単に視覚だけではなく、眼耳鼻舌身意に触れるものすべてである。「万法に証せらる」は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というふうに解説されていることが多いが、少しまだるっこしいように感じる。私は「万法即真実」とか「万法即自己」のようなニュアンスとして受け止めている。ものごとを突き詰めていけば、結局「見えているもの」しかないという「原事実」に立ち返るのである。
ここに至って、具体的事実の崇高さというものが見えてくる。「仏教の大意はなにか?」と問われて、ある人は「庭先の柏の木だ」(=>「庭前拍樹」)とか「麻三斤」とか答えたりする。またある時は、「雁はどちらに行ったか」と聞かれて「あちらへ」と答えたりすると、鼻を思い切りひねり上げられたりもする。(=>「百丈野鴨子」) 禅僧はやたら「喝」と怒鳴ったり、時には棒でたたいたりと、乱暴なことをしたりするが、すべて真実の現前性に気づかせようとの試みである。
キューポラのあった町 川口 2003年 ( 本文とは関係ありません )