禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ぼくって生きる資格あるの?

2015-12-01 11:18:09 | 哲学

先日、はじめて哲学カフェというものをのぞいてみた。その時の主たるテーマではないが、主催してくださった先生が「子供の哲学」というものもやっていて、そこで子供に「ぼくって生きる資格あるの?」と問われたというのだ。先生は感心なさっていたが、私はどちらかというと子供のいうことをあまり真に受けないタイプの人間である。このことについて少し考えてみたい。

子供はまだ言語操作に慣れていない。言葉を機械的に組み合わせているだけということもよくあるからだ。しかし、もしその子供がこの言葉を素朴に述べているとしたら、それはかなり深刻な事態と受け止めなければならない。不用意には受け答えできない問いである。

通常、資格とは何らかの権威から与えられるものだろう。国家資格は国家から、名取は家元から、空手や囲碁の段位はそれぞれの協会から与えられる、というふうに。

それでは『生きる資格』はどこから与えられるのだろう? 神様を信じている人たちにはもちろん神様から与えられているのだろう。では、無神論者にはどこから与えられる?

結論として、無神論者にはどこからも「生きる資格」証を発行してくれるようなところは見当たらない。だとすると、無神論者は「生きる資格」がないということになるのだろうか。

運転免許がなければ、車を運転する資格はない。名取でなければ流儀を名乗って踊りを教えることはできない。将棋は4段を取らなければプロの将棋家として活動はできない。等々のことから、その子供は生きるにも「生きる資格」が必要であると連想したのだろう。

しかし、なんにでも資格が必要というわけではない。車を運転するには免許を取得しないとだめだが、自転車は誰でも(技術があればだが)運転できる。フグはフグ調理師でないと調理できないが、カレーライスを自分で作ってもだれにもとがめられない。よくよく考えてみれば、ここで述べている「資格」というのはすべて人為的に決められた決め事にすぎない。基本的に、ほとんどのことに資格は必要ないのである。

そもそも『生きる』ということは何らかの行為といえるだろうか。人はすでに生きている。人は「生きている」上で何かを行為するのであって、「生きること」自体はニュートラルである。生きるための資格が必要であるという発想自体が転倒しているとは言えないだろうか。

『生きる』ということを意図的な『行為』であるとみなすと、さまざまな倒錯した発想が生まれる。「人はなんのために生きるのだろう?」というのもその一つだろう。

一般的に人の行為は何らかの目的のためにするものである。だから『生きる』のも何かの目的のためであろうという発想になるのだろう。しかし、既に述べたように「生きること」自体は行為ではない。我々は空腹を満たすために食べる。呼吸をするのは息苦しさを避けるためである。その結果我々は「生きて」いる。生物学的な視点から見れば「生きること」は目的であると言えよう。我々は生きるために具体的に悩み行動するのである。「なんのために生きる?」という問いは明らかに逆転している。

「生きる」ということの抽象性に取り込まれるべきではない。漠然と悩むことは何の解決にもならない。以前にも取り上げたが、あらためて「夜と霧」におけるフランクルの言葉をご紹介したい。

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)

さて、件の小学生には「生きる資格」についてどのように説明すればよいのだろうか。
 「君は生きる資格をすでに持っている。だから生まれてきたんだよ。」
こういうのはどうだろうか。あなたなら何と言いますか?

 

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