禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的存在論(その2)

2015-12-04 06:31:07 | 哲学

仏教ではこの世界は常に流動していて、なにものも一定不変なものは存在しないとみる。一般に個物は確固としてそこに存在するとみなされがちだが、仏教的世界観では水の流れの中の渦のようなものとして見る。ダイナミックに変転する世界の中で比較的安定的なパターンとして出現するものを、我々は個物と呼んでいるのである。

たとえば一人の人間について考えてみよう。一見人間は世界から独立した一個の存在と見られがちだがそうではない。私は毎日口から食べ物を食べ、鼻から呼吸をし、外部から栄養とエネルギーを取り入れ、不要なものを排出しながら新陳代謝を繰り返している。もとはといえば、母親の胎内の一個の卵であったものが、自分以外のものを吸収しながらどんどん自分以外のものになりつつある存在である。死ぬときには最初の受精卵とはあらゆる面で別のものになっている。時間を早送りにしてその一生を俯瞰すれば、水流の中の渦のようなものであることが理解できるだろう。

なにものもそれだけで存在できる実体というものは無い、というのが仏教的世界観である。その見方は物体的なものだけではなく、抽象的観念についても同様である。善悪というのも元々ありはしない。人間が社会を形成して、そのなかの関係性の中から生まれてきたものである。プラトンは美しさそのものが存在するというが、龍樹はそれを認めない。美しい、醜い、高い、低い、右、左、全ては相対的であり、関係性の中から生まれるのである。

そこでこういう反論が出るかもしれない。「すべては関係性だというが、何もなかったら関係性もない。個物を渦に例えるなら、それを形作る水という実体があるではないか。」
もっともな言い分である。関係性を造り出す質料というものはある。しかし、その質料にしてからが実体とは言えないのだ。

西洋哲学の源流であるギリシャの哲学者は、個物を分割していけば「原子」という究極の実体に還元できると考えていた。しかし、現代物理においてもいまだ究極の粒子というものを見出していない。どんな粒子もそのまま安定するということはなく、別の粒子とエネルギーとして崩壊する。エネルギーはそれ自身では発現できない、粒子の運動量や粒子そのものとなって現れる。やはりどこまで行っても関係性の連鎖でしかないのである。

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