禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

神仏を畏れぬ発言

2015-12-02 16:49:59 | 哲学

昨日は、「生きる資格」というものについて述べたのだが、これは個人的な生きづらさというようなものが、哲学的擬似問題となっているのだろうと私は考えてとりあげた。だから、「生きる資格」などという概念は空疎であり、その言葉に意味はないと訴えたかったのである。

ところが今、世間では「生きる資格」について公然と論議されていることを知って驚いている。茨城県の教育委員である長谷川智恵子氏が県内の特別支援学校を視察して、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないんでしょうか。4カ月以降になるとおろせないですから」と言ったというのだ。そして、「(特別支援学校では)ものすごい人数の方が従事している。県としてもあれは大変な予算だろうと思った」のだとも。

つまり、障害者の「生きる資格」というものに疑問を投げかけているわけだ。特別支援学校に金がかかるからというけちくさい理由でだ。

教育委員という立場から大所高所に立った提言をしたつもりなのだろうが、アマチュア哲学者としては、長谷川氏の「『生きる資格』について語る資格」を問題にしたいと思う。てっとり早く言うと「あんた何様のつもり」ということだ。他人の命を高みから見下ろしてどうのこうの言う、人間はそのような視点に立ちえない、あえて言うならそれは神の視点である。

この手の発言は出るたびに袋叩きにされてしばらくは鳴りを潜めるが、時を経ると必ず性懲りもなく繰り返される。障害者に対する差別が人々の心の中に抜きがたくあるからだろう。その底には「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良」を志向する優生学的思想が横たわっている。

優生学を初めて唱えたのは、チャールス・ダーウィンの従弟のフランシス・ゴルトンである。それはもちろん進化論の影響を受けてのことだろう。障害者を排除して、美しい民族美しい国を実現しようとする発想は西洋流即物主義の悪しき一面に違いない。

大乗仏教の視点に立てば、本来的な健常者や障害者などというものは存在しない。比べてみて、比較的健常であるか不自由かということでしかない。すべては空であり、縁起の中でたまたま健常者であったり障害者であったりするだけのことなのである。健常者と障害者の間に境界などない。誰もが健常者であり障害者でもあるのだ。障害者を切り捨てることは自分を切り捨てることでもある。

人間を人為的に淘汰すれば特別支援学校もなくなりさっぱりする、というような幻想はいい加減ふり払うべきである。無常の世界では、様々な困難がつきまとうことは避けられない。面倒くさがっておおざっぱな思考に流れてはいけないのである。あらゆるものに慈しみを持つというのが釈尊の教えである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする