禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「空」は空しいという意味ではない

2015-09-03 11:36:51 | 哲学

時々、「空」をまぼろしのようなものと解釈している人が見受けられる。そういう人は「すべては空だから儚いものであると達観する」ことが悟りであるかのように勘違いしているのである。

仏教では「一切皆空」とは言うが、そこには空しいとか儚いとかいうニュアンスは一切ないのである。あくまでこの世界は現実のものであり、そのリアリティを疑うべきものでもない。しっかりとこの現実を受け止めて、喜ぶべきを喜び、悲しむべきを悲しむのがまっとうな人の生き方である。この世界は良い事ばかりではない、悲しみや苦しみもある。しかし、それでもなお、この世界を肯定し続けようというのが仏教の主旨であろう。

「空」というのは「絶対ではない」という意味である。仏教では神というものを措定しない。つまり、この世界を究極的に差配しているものは無いということである。単純なことだがなかなかこれを受け入れがたいのである。

ある日魅力的な異性に出会い、そして好きになったとする。これに運命を感じ、私は彼(彼女)と「絶対」結ばれなくてはならないと思うようになる。しかし、相手の意志が常に自分の方を向くとは限らない。自分がこれほど好きなのに相手は冷淡である、こんな不条理があるであろうか。そうして私はストーカーになってしまう。

愛する子供を失った母親は悲しみに打ちひしがれる。悲しんで当然である、母親なのだから。こんなに愛する子供を奪われたことの不条理を呪うことだろう。しかし、釈尊は執着してはならないというのである。一旦現実となってしまった事実は受け入れるしかない。

キリスト教なら、すべては神のおぼしめしということで納得するのだろうが、仏教では無常という。すべては偶然なのである。この偶然性を受け入れる覚悟を「悟り」というのだろう。

一旦その覚悟ができれば、無常のネガティブさは解消される。この世界は奇跡に支えられた妙の世界へと変貌するのである。「柳は緑花は紅」とか「眼横鼻直」とは、この世界が「当たり前の世界であるという意味であるが、その「当たり前」の裏に奇跡性が潜んでいるということが含まれている。悟りとは空観を通して、この「当たり前」の世界を再発見することでもあるのだ。

栂ノ尾の明恵上人は野に咲くすみれを見て落涙したと言われている。小さくてはかなげなすみれが奇跡的な偶然性に支えられてそこに「ある」、その深妙さに感動したのだ。「空」は決して空しくない。すごく充実しているというべきだと思う。

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無記

2015-09-02 09:52:14 | 哲学

ある男がお釈迦様に、「この世界に始まりと終わりはあるのですか? 生命と身体は同じものですか? 死後の世界はあるのですか?」と問うたところ、お釈迦様は何も答えなかったと言われている。

このような形而上学的問題に言及しないことを、仏教では「無記」と言う。仏教的断念の哲理と言ってもいいかもしれない。「断念」というとなんだか消極的なニュアンスがあるが、仏教において「無記」は非常に重要な概念である。

人はときに「世界は永遠である。」とか「死んだら無だ、時間も空間もなくなる。」などと、こともなげに言うことがある。しかし、我々の経験は「永遠」に到達することはないし、「時間も空間もない」状態を直感することはできない。「永遠」とか「死後の世界」と言う言葉について、私たちは矛盾なく定義することはできる。しかし、その概念の内容は空疎なのである。

思考は概念を操作するだけであるから、概念ができればそれについて考えようとする、それが人間である。「死後の世界」についても私たちは何とか知りたがる。そして考えようする。たいていの人は睡眠からの連想で死を考えようとするだろう。概念に直感を伴わせるためには経験が伴わなければならないからである。しかし、端的に言ってあらゆる経験は死とは無縁のものである。死後の世界を知る手立ては、根本的に閉ざされている。

この世界の重要なことは我々には何もわからない。なぜこの世界はこのようにして有るのか。私はなぜなんのために生まれてきたのか。なぜ私は私なのか、私とはいったい何者であるのか。わからないことだらけである。

禅の専門道場では、日夜何千もの修行僧がそのことを知りたくて坐禅している。しかし、決して「これこれこうです」と言うような解答に至るものは一人としていない。もともと世界は無根拠であるからである。無根拠であるから空であり無常なのである。いくら修行してもそのことがいよいよ明らかになっていくだけである。

釈尊の説いた仏教は本来シンプルにして明解であって、神秘的・呪術的な要素は皆無である。しかし、仏教が伝来してくる上であまたの人の手を経るわけである。その間にいろんな夾雑物がくっついてくるのだろう。六道輪廻という言葉も仏教の教説の中で語られたりするが、釈尊が死後の世界に対して無記としている以上、それは本来の仏教思想とは無関係のものである。
また、キリスト教などでは「魂は永遠」と言われるが、仏教ではあくまで無記である。したがって地獄極楽という言葉も釈尊の教えとは無縁のものである。

必然のとりことなった現代人は、何につけても理由を求めようとする。自分が今「こうである」ことに理由がないと不安なのだろう。時に、「前世の因縁」などと言い出す人もいる。しかし、仏教における「因果」というのはこの世界が物理法則に従っている、という程度に理解しておくべきである。仮に、「前世の因縁」というような超越的な法則があったとしても我々はそのことについて知ることができない以上、それに言及すべきではない。

3.11の大災害の折に、「これは天罰だ」とのたまわった政治家がいた。何か悪いことをしたから応報としての罰が下ったという意味だとしたら、ずいぶん不遜な物言いである。被害にあった人々の「自己責任」だというわけである。それを言うには「因果応報」のメカニズムについて、その政治家は知っていなければならないはずである。知りもしないのにそのことに言及する、それはカルトの伝道師に似ている。

この世界が無根拠であるということは、偶然であるということである。不条理ということでもある。それが無常だということである。不条理であっても、我々は無常の世界を受け入れるしかない。仏教的諦観とはそのことである。決してそれは消極的な態度ではない。積極的に生きるためにどうしても必要な「断念」であるということなのである。釈尊が執着を捨てよというのはそういうことである。

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