禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

やはり地動説でいこう

2015-09-23 17:05:30 | 哲学

前回記事では、天動説も地動説も架空のものであるというようなことを私は述べた。趣旨が誤解されるかもしれないので、もう少しこの件について述べておきたい。

この世界は一つのものであるとしても、視点によって見え方が様々なのである。しょせん天動説と地動説の違いも視点の相違によるものであり、それぞれがそれぞれの正当性をもつのである。

ただ、天動説は自己中心の単一の視点に依っているのに対し、地動説はより広範囲からの視点に耐えうるという点において科学的には優位にあると言える。夜空を肉眼で眺めている分には、天動説でも地動説でもどちらでもよい。直感的になじみやすいという意味では天動説の方が優れていると言ってもよいだろう。しかし、望遠鏡で惑星の動きを観測するようになると、途端に天動説は不利になる。惑星の複雑な動きも地動説によればシンプルに説明できるが、天動説ではアドホックな補足説明を付け加えざるをえなくなって途端に複雑になる。観測精度が上がれば上がるほど天動説の方はより複雑になって、ついには破綻してしまうわけである。

橋本凝胤師は科学者ではなく仏教の僧であり、自己を掘り下げることを旨としているわけで、天動説の立場をとるというのも理解できる。が、しかしどうだろう。仏教そのものが「一切皆空」というのである。絶対的な事実というものを認めていない。地動説が架空のものであれば天動説もまた架空のものである。

あえて天動説を主張するのも一つの見識だと思うが、固執すれば独断に陥る。仏教者は独断に陥ってはならない、空観は常に自分を相対化することを要求するはずである。

我々は究極の真実に到達できない。橋本凝胤師があえて天動説を主張したのはそういうことではなかっただろうか。つまり、我々は事実の世界に住んでいるのではなく、信憑性の世界に住んでいる。

かつて科学のない時代には、シャーマニズムがその役割を果たしていた。病気になったら、シャーマンが病巣に取りついた悪霊を追い払って治療していた。現代人は嗤うかもしれないが、確かにそれで病気が治癒することもあるのである。呪術によって悪霊を除くのと、抗生物質によってウイルスを排除することの間には本質的な違いはない。違うのは、それが拠って立つところの信憑性の基盤の広範さと強固さである。

現代人の情報量はかつてのどの時代よりも膨大である。しかもそれらの情報が緊密に絡み合っており、強固な信憑性の基盤となっているのである。私は決してシャーマンを嗤ったり軽蔑はしないが、やはり病気になったら、シャーマンではなく医者を頼る。虫垂炎はシャーマンには直せないだろうからである。

この世に信念対立が絶えないというのは、我々が究極の真実に到達できないということから来るのである。畢竟我々は有限な経験の上の論理的整合性に立つしかない。あえて主観的で偏狭な「真実」に執着することも論理的には可能である。「我々は事実の世界に住んでいるのではなく、信憑性の世界に住んでいる。」というのはそういう意味である。

かつて、「アポロ宇宙船は月になど行っていない。あれはスタジオで撮った画面をテレビで流しているのだ。」と主張する人がいたのを覚えているだろうか。常識的には突飛にみえても、哲学的厳密さでもって彼らの主張を論駁することは、実はそれほど容易ではない。彼らは彼らで論理的整合性のあるものの見方をしているのである。ニーチェは「真実などない あるのは解釈だけだ」と言った。この世界の解釈の仕方は実は無数に存在する。

だから、「ナチスのガス室はなかった。」とか、「南京大虐殺」は捏造だった」、「従軍慰安婦は純然たるビジネスであった」とか言い出す人もいるわけである。実証的な歴史学者の言うことに耳を傾けないで、自分たちの受け入れやすい事実だけをフォローしていけば、第三者から見れば奇矯に見える仮説に論理的一貫性をもたせることも可能である。

問題は、その命題が拠って立つところの信憑性の基盤がどれだけ広範であるかによる。社会的な問題では、私たちは常に自分を相対化することが必要である。受け入れにくい情報も進んで受け入れなくてはならないのである。現代に生きる我々はやはり天動説に固執するべきではないだろうと私は考える。

(関連記事)=>「天動説でもええやないか」


高麗川べりの曼珠沙華 (埼玉県 日高市)

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