時々、「空」をまぼろしのようなものと解釈している人が見受けられる。そういう人は「すべては空だから儚いものであると達観する」ことが悟りであるかのように勘違いしているのである。
仏教では「一切皆空」とは言うが、そこには空しいとか儚いとかいうニュアンスは一切ないのである。あくまでこの世界は現実のものであり、そのリアリティを疑うべきものでもない。しっかりとこの現実を受け止めて、喜ぶべきを喜び、悲しむべきを悲しむのがまっとうな人の生き方である。この世界は良い事ばかりではない、悲しみや苦しみもある。しかし、それでもなお、この世界を肯定し続けようというのが仏教の主旨であろう。
「空」というのは「絶対ではない」という意味である。仏教では神というものを措定しない。つまり、この世界を究極的に差配しているものは無いということである。単純なことだがなかなかこれを受け入れがたいのである。
ある日魅力的な異性に出会い、そして好きになったとする。これに運命を感じ、私は彼(彼女)と「絶対」結ばれなくてはならないと思うようになる。しかし、相手の意志が常に自分の方を向くとは限らない。自分がこれほど好きなのに相手は冷淡である、こんな不条理があるであろうか。そうして私はストーカーになってしまう。
愛する子供を失った母親は悲しみに打ちひしがれる。悲しんで当然である、母親なのだから。こんなに愛する子供を奪われたことの不条理を呪うことだろう。しかし、釈尊は執着してはならないというのである。一旦現実となってしまった事実は受け入れるしかない。
キリスト教なら、すべては神のおぼしめしということで納得するのだろうが、仏教では無常という。すべては偶然なのである。この偶然性を受け入れる覚悟を「悟り」というのだろう。
一旦その覚悟ができれば、無常のネガティブさは解消される。この世界は奇跡に支えられた妙の世界へと変貌するのである。「柳は緑花は紅」とか「眼横鼻直」とは、この世界が「当たり前」の世界であるという意味であるが、その「当たり前」の裏に奇跡性が潜んでいるということが含まれている。悟りとは空観を通して、この「当たり前」の世界を再発見することでもあるのだ。
栂ノ尾の明恵上人は野に咲くすみれを見て落涙したと言われている。小さくてはかなげなすみれが奇跡的な偶然性に支えられてそこに「ある」、その深妙さに感動したのだ。「空」は決して空しくない。すごく充実しているというべきだと思う。