禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

倩女離魂 ( せいじょりこん )

2014-06-25 09:31:52 | 公案

今回は無門関第35則「倩女離魂」を哲学的な観点から論じてみたい。

王宙と倩女は恋仲でお互いに夫婦になるものと心に決めていた。当初は倩女の両親も二人の仲を認めていたのだが、気が変わって別の有望な青年と倩女の結婚を決めてしまったのだった。失意の王宙は一人さびしくその土地を去ろうとして船着き場にきたのだったが、後ろの方から追いかけてくる足音がする。親の目を盗んで倩女が後を追いかけてきたのだった。二人は手に手をとって駆落ちしたのだった。
5年間の夫婦生活で子供も二人生れ幸せに暮らしていたのだが、黙って残してきた両親のことが気になって、倩女は一度実家に帰りたいと言いだした。そんなわけで二人は駆落ちした時の船着き場までやってきた。王宙は倩女の両親に謝罪するため、そこに倩女を残して先ず自分一人で妻の実家を訪れた。そして両親に不孝を詫びると、両親は一体何を言っているのだと怪訝な顔をする。倩女は王宙と一緒になれなかったことを嘆いて、5年間家から一歩も出ずに病に伏せっているというのだ。
そこへ、倩女が船着き場から遅れて実家に到着すると、家人は皆驚く。
そして抜け殻のようになったもう一人の倩女と対面すると、たちまち二人は合体して一人になってしまった。

実家で伏せっていた倩女と王宙と駆落ちした倩女、どちらが本物の倩女であるか? 駆落ちした倩女を魂、伏せっていた倩女を肉体とするなら、肉体と魂のどちらが本当の主体であるかを問うているとも考えられる。
この公案を哲学的に解釈するなら、哲学者永井均さんがその著書「の存在の比類なさ」で論じられている問題ではないだろうかと私は思った。永井さんなら、その時倩女であるものが倩女だと言うだろう。ここでいうは「世界の開け」そのもののことである。

公案はすべて難しいものだが、この公案はとりわけ「難透」というカテゴリーに入れられている。ほかならぬ白隠禅師がそのように分類したのである。ところが私には、この公案が「難透」である理由が分からないのである。ろくすっぽ修行もしていないお前が分からないのは当たり前ではないか、と言われれば返す言葉もないのだが、間違いを恐れずまた無知を恥じないのがこのブログのモットーであるから強引に話を進めることにする。

この公案の難しさというのは、「よりによってどうして自分が自分であるのか」ということの説明がつかないということではなかろうか。それはおそらく学問としての哲学からでは解決のつかない問題だと思う。哲学は公共の学問であるから、自己についても相対化しなければ議論できない。つまりこの世界を自分の外側から俯瞰する視線と自分の内側からみつめる二重の視線を重ね合わせながら解釈するのである。そのような観点から見ると、どうしても自分の「比類なさ」というものを解消できない。哲学的には難問中の難問といえる。

だが、ひとたび禅者の観点に立てば上記のような問題は霧散してしまう。禅者は究極の独我論者・独今論者である。自分を相対化する視線など持ちえない。あるのは「今」と「ここ」だけである。つまり、今ここに開けている世界を素朴に見つめるだけなのだ。この世界の「開け」こそが自分自身であり、それをありのまま受け入れる以外の視点は禅者にはあり得ないのである。

どちらが本物の倩女? と問われても、公案は自分の実存を離れて考えてはいけないのである。すべて「本当の自分はなにか?」という問題に還元されねばならない。今ここに開けている世界をありのまま受け入れるという不動の姿勢があれば、この公案は難透どころかやさしすぎる。問題ははじめから存在しないのである。

※ これはあくまで素人としての哲学的解釈です。全然見当違いのことを述べているかもしれません。専門家の方から見てご不審な点があればぜひご指導をお願いしたいと存じます。

 (参考 ==> 「公案インデックス」      ==>  現代版「倩女離魂」 )


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