禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

源実朝と興国寺

2022-10-18 15:49:54 | 仏教
 興国寺というのは紀州・由良にあるかつて日本三大禅道場とも謳われた臨済宗の鷲峰山興国寺のことである。もとは高野山の金剛三昧院の別当である願生が源実朝の菩提を弔うために当初は西方寺として建立したが、後に開山として心地覚信禅師を迎え入れて寺号も興国寺とあらためたものである。ちなみに由良は私の故郷である御坊市の隣町でもある。

 ここで、金剛三昧院と願生と心地覚信の関係性について触れておこう。金剛三昧院の前身は禅定院という禅蜜兼修の道場であった。北条政子が夫の源頼朝を弔うために立てたものである。三代将軍源実朝が非業の死を遂げた後政子は実朝の菩提を弔うために、政子は禅定院を大幅に改築し金剛三昧院と名を改め、鎌倉将軍家の菩提寺としたのである。そして金剛三昧院の経営のために紀伊の国由良の荘が領地として与えられた。 願生はもとは葛山五郎景倫という実朝直属の御家人であったが、実朝の死後主人を弔うために出家したのである。 政子は願生の忠義に報いるために彼を金剛三昧院の別当そして由良の荘の地頭に任じたのである。願生は任地の由良に実朝の菩提の為に西方寺を建立した。これが後の興国寺である。

 当時の金剛三昧院の長老は退耕行勇(たいこうぎょうゆう) 禅師で、心地覚心はその弟子であった。そこで願生は宋に渡って禅の修行をしようとする心地覚心に実朝の遺骨を託し、それを育王山に埋葬することを依頼したのである。詳しいいきさつは知る由もないが、願生は遺骨の埋葬というミッションと引き換えに覚心の渡宋の為のスポンサーとなったのではないかと思う。実朝は宋にあこがれ、かの地に渡ることを切望していた。(※注) 願生は遺骨の一部を育王山に埋葬することによってかつての主人の願いをかなえさせたいと考えたのである。
 
 覚心は宋に渡り当初は径山の癡絶道沖に参じ、翌年には道場山の荊叟如珪に参じた。その後阿育王山に掛塔し2年ほどその地で修行した。その際に実朝の遺骨を埋葬するというミッションを果たしたと考えられる。その後、杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開の下で修業し、ついに印可を認められる。無門慧開は代表的な公案集である禅宗無門関の編纂者である。無門禅師の下で嗣法を認められた覚心は、無門関と尺八と味噌を携えて日本に帰国した。そして前にも述べたように、願生は覚心を西方寺改め興国寺の開山として迎え入れたのである。同時に金剛三昧院の禅部門を興国寺に移して、宗旨も真言宗から臨済宗に改められたのである。

 というわけで、興国寺は日本における尺八と味噌の発祥の地となった。それで金山寺みそは当地方の名物にもなっている。径山寺からその製法が伝えられたのであるから、本来は「径山寺みそ」とすべきかもしれないが、「金山寺みそ」が一般的になって広まった。(現在では「径山寺みそ」というのはある個人商店が商標登録してしまったため、その商店だけの商品名となっている。) また、醬油は味噌のたまりから作られるため、やはり醤油も興国寺が発祥であるとする説が有力である。近隣の湯浅や御坊は小規模ながら醤油や味噌をつくる企業が多い。

 その後、心地覚心は後醍醐天皇から法燈円明国師と諡(おくりな)された。それで私の子供の頃は興国寺は臨済宗法燈派を名乗っていた、ところが最近は妙心寺派の末寺となっているらしい。どういう経緯でそうなったかは分からないが、ウィキペディアによれば、【 昭和31年(1956年)、臨済宗妙心寺派から独立し臨済宗法燈派大本山になったが、昭和61年(1986年)に妙心寺派に復帰した。 】となっている。

(※注) 宋人陳和卿は東大寺大仏を造った工人であるが、実朝に謁見した際に実朝は医王山長老の生まれ変わりであると告げた。その話の内容が実朝が以前見た夢の内容と一致していたため、実朝は陳和卿の話を信じてしまった。それ以来、実朝は育王山阿育王寺に参詣することを夢見ることになる。そして実際に渡宋のための唐船の建造を陳和卿に命じたのであるが、巨大な船は遠浅の鎌倉の鎌倉からは出航できず、計画は失敗に終わってしまった。なぜそれほど育王山にあこがれたかと言うと、それは当時の仏舎利信仰にあったらしい。仏舎利を礼拝することによって現世・来世利益の功徳が得られるというようなことを実朝も信じており、彼にはそれを求める切実な理由があったのだろう。そして、育王山の阿育王塔におさめられた仏舎利は釈尊の真骨であるとされていたからである。

※ お詫びと訂正  「育王山」と書くべきところを「医王山」と書いてしまいました。育王山は正式には阿育王山広利禅寺のことで、通称「育王山」と呼ばれています。 

紀伊由良駅には急行列車は止まらない。ひなびた駅である。

紀伊由良駅から県道23号(御坊湯浅線)に沿って進むと、「開山法燈国師道場」の石碑が立っている。かつての山門跡である。昔は広大な寺領を有していたことが想像できる。
 
うっそうとした参道を進んでいくと立派な石垣と石段が見えてくる。 
  
石段を上がると、立派な伽藍がそびえている。 
 

法堂には「関南第一禅林」の額が掲げられている。
 
興国寺を訪れたなら、近くの白崎海岸を見て欲しい。車なら15分程度で行けます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天才子役 | トップ | 朝令暮改のなにがいけないのか? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

仏教」カテゴリの最新記事