月曜日の9時からのドラマで「ミステリと言う勿れ」というのがある。ストーリーの展開がちょっとミステリアスで面白いので毎週見ているのだが、今回の話の中で「カブトムシの箱」という哲学の思考実験の話が出てきた。ちょっと感動したとともに違和感をいだいた、というのはなかなかこれはドラマにアクセントをつけるだけのものとしては少し難解な話だからである。これはヴィトゲンシュタインの「哲学探究」という本の第293節に出てくる話だが、その一部を引用してみよう。
≪ --そこで、人は皆ある箱をもっている、としよう。その中には、我々が「カブトムシ」と呼ぶあるものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗くことはできない。そして、皆、自分自身のカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシの何たるかを知るのだ、と言うのである。-- ≫
自分の箱の中身は自分しか見ることは出来ない。他人の箱の中を見ることができない、そのような状況の中でお互いの箱の中身について語り合う事に意義があるだろうかという問題設定である。人間の意識をカブトムシの箱になぞらえていることはすぐわかる。そこで、ドラマの作者は「青い空を見ている時、私が見ている青と彼の見ている青は同じ青なのだろうか?」 つまり、私の見ている青色はもしかしたら彼には赤色に見えているかもしれない、というふうに解釈したようだ。同じ「青色」を見ていると言っても、お互い他人の意識の中を覗けるわけではないので、同じ色に見えている保証はないというわけである。
しかし、実を言うと上記のような理解だとヴィトゲンシュタインの真意には程遠いのである。言語というものは公共のものであるから、意識の中の内容という私秘的なものについて言及できない、言及したとしてもその内容を素通りしてしまい、その言葉がなにを表現しているか意味不明なものになるというのである。
「私の見ている青色と彼の見ている青色は、実はそれぞれ別の色である。」
あなたは上記の言葉の意味するところが理解できるだろうか? ヴィトゲンシュタインは理解できないと言う。上述のような言明をする人は自分が何を言っているか分からないで喋っているというのである。
言葉の意味がわかるならば、その言明がどういう場合に真であるかまたは偽であるかが分かっていなければならないはずである。例えば、「雪は白い」という言葉の意味は誰でも分かる。本当に雪が白ければ「雪は白い」は真で、もし雪が黒かったりすれば「雪は白い」は偽である。そのことが理解出来ていれば、「雪は白い」という言葉の意味が分かっているとしても良いだろう。しかし、私の見ている青色が「本当は」どんな色であるかは私以外の誰も分からないし、彼の見ている青色が「本当は」どんな色であるかは彼以外の誰も分からないのである。私の見ている青色と彼の見ている青色を比較する方法は絶対的に閉ざされている。該当の言明はどういう場合に真であるかまたは偽であるかを言うことは出来ない限り、その言葉の意味も理解できないということである。
私とあなたが晴れ渡った空を見ているとする。私があなたに「空が青いね」と言う。あなたはそれに答えて「うん、青いね」と言う。この時二人は間違いなく「青い」空を眺めている。公共言語としての「青い」という言葉の意味はそういうことであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。
空は青い。(横浜 円海山にて)