禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

進化論を目的論的に論じるべきではない

2019-02-05 04:33:58 | 哲学

私達の祖先は長い間の自然選択をくぐり抜けてきた。そうして、現に私たちが今存在しているわけである。なので、私たちは種族保存という意味においては非常に洗練されていると考えて間違いはない。だから、私たちの性質の一つ一つに対して進化論的な理由を見出すことはそれほど困難なことではない。

例えば、一般的に蜘蛛や蛇、ムカデなどに生理的な嫌悪感を持っている人が多いが、それらは毒をもつ種が多いゆえに、不用意にそれらに触れようとしない方が望ましい。 また、大抵の子供は野菜嫌いであるが、これにもまた同様な理由が考えられる。植物にはアルカロイド系の毒をもつものが多いので、それらが美味しく感じるようではとても危険なのである。たいていの人は親が与える野菜に徐々に慣れていくのである。 

私達の本能に潜む些細な性質の一つ一つが入念に吟味されているかのように感じるのは、長い進化の過程を考えてみれば無理からぬことだと思うのだが、あくまでそれは偶然の積み重ねであることを忘れてはならないと思う。自然選択の効果が余りに絶大であるために、あたかも超越者がそれを主宰しているがごとく、目的論的に解釈するような視点が生じてくるのである。 

進化論について議論していると、「どうしてLGBTというものがあるのだろうか?」というような問いが出てくることが多い。つまり、種族保存という観点から見れば、LGBTは淘汰されていなくなるはずではないのか?ということらしい。おそらくそのような見方は、自然選択を過大評価するあまり、進化論を目的論的に解釈するという誤りを犯しているのである。 

進化というものが超越者によって企てられたものであって、はじめから男と女の設計図が別個に作られたものであったなら、おそらくLGBTの生まれる余地はなかっただろう。だがしかし、自然はそこまで周到ではなく、どちらかと言えば横着であると考えるべきである。男と女は共通の基盤から分化したと考えるのが順当だろう。男と女の差異はごくわずかであることは、私自身ががん治療の過程で自らの体験を通して実感したことでもある。(参照=>「私は男でもありまた女でもある」

性の分化はとてもデリケートな問題である、共通の基盤から性が『正常に』分化するにはいくつかのスイッチのオンオフが正確になされねばならないのであろう。しかし、種族保存という観点から論じれば、それは歩留まりの問題である。一定の割合でLGBTが生まれるということは十分考えられることである。全員がヘテロセクシャルにならなければ種族保存ができないということではない。現状でも人類は十分な繁殖能力がある、ただそれだけのことである。そういう意味において、人類はまだ洗練され切ってはいないと言ってもいいかも知れないが、自然はそのような価値観を持ってはいない。種族保存に適した種が生き残っているという身もふたもない話である。進化論というのは、「生き残る確率が高いものが生き残る可能性が高い」という身も蓋もない「当たり前」のことを主張しているだけである。 

遺伝子など見たこともないのに、「彼のすぐれた遺伝子を残したい」などと表現する女性がたまにいるが、そこに優生思想が潜んでいるように思えて気持ちが悪い。誰も「すぐれた子孫を残す」という使命を負わされているわけではない。そもそも「すぐれた子孫」という価値判断が恣意的で傲慢であると思う。

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