先日ある方から私のブログについて、「これは仏教なのかなと疑問に感じました」という指摘をいただきました。そのような感想を持たれるのはある意味当然ではないかと思います。ちょっといい訳をしておきますと、ブログのサブタイトルで「禅的哲学は哲学であって禅ではない。」と断ってありますから、たとえ「これは仏教ではない」と断じられたところで、私にとってはどうということはないのですが、自分としては仏教について論じているつもりでもあるので、その辺を少し説明しておきたいと思います。
あえて哲学的な視点から、仏教とは何かと聞かれたら、迷わず「空観である」と答えます。その他のことは枝葉末節であると思います。空観によってこの世界を見つめなおし、その奇蹟性を認識すれば、あらためてこの世界を畏敬し慈しむ感性が湧いてくる。それが仏教の倫理性の源泉となります。(あくまで私個人の理解です。)
以上のことは言葉にすれば非常に単純ですが、実際は分かりにくい。「色即是空」などと言われても、それなりの訓練のない人には通じないわけで、そのような抽象的な言い回しをしなくとも、目的の境地に導くためにいろいろな方便が積み重ねてこられました。その結果、四万八千の法門と言われるように膨大な教説が生まれてしまったわけです。
キリスト教のような一神教ですと、教理を一貫した体系とするために、先鋭な信念対立が起こり、時には宗教戦争にまでなることがあります。しかし、仏教の原理はもともと「一切皆空」ですから、断定的なイデオロギーは成立しません。ことの是非も善悪もすべて相対的なものであるからには、自分の正義を一方的に言い募ることはできないのです。「法論はどちらが負けても釈迦の恥」という言葉がありますが、このような事情が背景にあるのだと考えれば納得がいきます。ですから、明らかに矛盾しあう教理であっても仏教内部では深刻な対立にはなりにくく、まったく別様な宗派が併存するというような現状になっているのでしょう。ですから、おそらく仏教経典どうしを突き合せれば、その中には理論的な矛盾が沢山あるはずだと思います。
なので、自分が仏教とどのような接点を持ったかで、仏教がなんであるかということも人によって大きく違って当然であると思います。
ここからは私の個人的な見解ですが、日本に伝わった仏教はあまりに多くの人々の手を経ているため、明らかに本来の仏教とは無縁の言説が含まれているように思えます。例えば、地獄・極楽とか六道輪廻などという、明らかに作り話であると思えるような概念が数多くあります。それらは手っ取り早く倫理観を植え付けるためというより、人々を恐怖によって宗教に縛り付けようとする方便では無かったでしょうか。釈尊は超越的な概念や、形而上の議論を好まなかった人であります。教育の行きわたった現代人が受け入れがたい迷信の類はもはや排除するべきではないかと思うのです。
超越概念を排除した素朴な仏教は、現代人が抵抗なく受け入れることのできる唯一の宗教である、と私は思うのですが、どうでしょうか。
大徳寺高桐院 (京都)