デカルトは本当の真理というものを求めるために、疑えるものはすべて疑ったうえで本当に確かなものは何だろう、と考えました。そのように考えると、今まで受け入れてきたことが実はすべて疑わしい。しかし、徹底的に疑ったとしても、どうしてもそこに疑っている自分がいることは否定できない、ことに気づいたのです。つまり、すべての思考には、「私は考える」ということがついてまわるというわけです。
しかし、「私は考える。だから私はある。」という言い方には問題があります。まず、「私」がなければ「私は考える。」ということが言えないわけで、前提の中に既に結論が組み込まれているわけです。「私は考える。」と言えるためには、まず「私」がどのようなものであるかが分かっていなければならないはずです。果たして、考える「私」とはいったいどのようなものでしょうか。
今この記事を読んでいるあなたの脳裏にはいろんな感覚が渦巻いていますね。「御坊哲は一体何を下らんことを言っているのだ」というような考えがよぎったり、空腹を感じていたり、なんとなく腕のだるさを感じていたりするかもしれません。しかし、その中に「これが自分だ」と明晰にとらえることが出来るものがあるでしょうか。おそらく、今浮かんでいる考えや感じている感覚そのものを自分だと感じているのであって、「考えている自分」や「感じている自分」は把握できていないはずです。
ここのところが難しい所ですが、仏教哲学ではどこをどう探しても「これが自分だ」というものは見つからなかったというのが結論です。単に「考えた」だけでは自分があることの根拠にはならない。何かを考えても、「考え」があるだけで「考えている自分」が見当たらないのです。禅のお坊さんは、木を見ると「自分が木になる」というふうな言い方をします。それは、木を見ている時には、そこに「木が見えている」だけであって、「見ている自分」というものが実はないということを言っているのです。
ところがヨーロッパ語では、何かが脳裏に浮かんだ時には、必ず考える主体がなくてはならないことになっています。文法として、「考える」という動詞には主語が必要なので、すべての思考には「私は考える」ということが文法的に必ずついてまわります。不可避的に、「考えているのは私である」ということになってしまうのです。だからデカルトが、「私は考える。だから私はある。」と考えたのも無理はないのです。
禅者は言語に迷わされないで直接自分を内観します。そして「無だっ!」と喝破するのです。自己を究明していくと、あるはずと思っていたものがない、だから究極の自己は「無」であるというわけです。色即是空の「空」と混同されて論じられるむきもありますが、別の概念です。
大船観音 (神奈川県鎌倉市)