禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

世界はなぜ無常なのか

2022-03-21 12:28:56 | 仏教
 この世はなぜ無常なのか? その問いに答えることは簡単である。それは神様がいないからだ。もし、ユダヤ・キリスト教のいうような超越神があるならば、神の意志による世界のあるべき姿というものが存在する。しかし、仏教ではそのような超越的な神様を認めない。であるから、仏教においてはこの世のあるべき姿というものが存在しない。つまり、あらかじめ約束されているものがないので、すべては偶然的な成り行き次第ということになる。超越的なものの意志と力がない限り、全ては自然法則に従って流動していくだけ、当然そうなる。それが無常ということである。だから、本当なら仏教には「神頼み」というものはない。仏教徒の本来の祈りはおのれの計らいを捨て自然(じねん)に従うというところにあるのである。

 唯一神を信じる西洋と無常観に基づく東洋の世界観の違いは庭園の造り方などにも反映される。西洋式庭園では幾何学的な直線や曲線が多用されるのに対し、日本庭園では出来る限り自然そのものを再現しようとする。例えば、枯山水の庭園における庭石の置き方などについて言えば、出来る限り作為的でないように工夫される。作為的でないというのは、規則的ではないということである。規則的でないということは均一的でも比例的でもないということ、ランダムであり偶然的であるということである。こういうところにも、真善美のイデアという観念上の理想を追求する西洋とあるがままの自然を受容しようとする東洋の違いが表れている。

 無常の世界は不条理である。あるべき理想を抱いている人から見れば、それは不公正とも見える事だろう。しかし、それを審判する超越的な神はいない。すでに起こってしまった現実については事実として受け止めるしかないというのが仏教的諦観である。諦観と言うと少々消極的でニヒルなニュアンスを感じるかもしれないが、単に事実を事実として受け止めよというに過ぎない。現実に起きてしまった不条理に対して拘泥しすぎてはならないということなのである。このことについて教え諭す仏教説話として「子供を亡くしたキサー・ゴータミー」というのがある。

 愛する息子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言った。キサーは一日中駆けずり回ったあげく、そんな家は一軒もないことを悟る。彼女はようやく息子の死を受け入れなければならないことを知るのである。命あるものはいつか死ぬ、それは当たり前の理屈だが、その理屈がなかなか受け入れがたい。それをうけいれるためにはある程度の修業が必要なのだろう。だから釈尊は彼女に対し一つの修行を課した。「死人が出たことのない家」を探すことは言わば一つの公案と言ってもいいだろう。ゴータミーは一日中その公案に取り組んで、心身共にへとへとになった結果、ようやく無常の理を骨の髄から知らされるのである。 

 ウクライナでは現在非道な戦争が行われている。ニュースで知る限り、非はロシア側にあることは間違いない。プーチンの一つの決断が4千万のウクライナ人を塗炭の苦しみに陥れている。しかもプーチンの予想に反して、ウクライナ側の善戦により戦いは泥沼状態でさらに長引きそうである。二年後に大統領選挙を控えているプーチンとしては、勝利宣言なしではこの戦争を終えることはできない。彼の脳裏にはクリミア強奪で支持率を90%まで押し上げた成功体験があるはず。一方、ウクライナ側からすれば、正義は我が方に有りということで絶対負けられないという思いがある。このままいきつくところまで行けば破滅的な結果になるのではないだろうか。私は国際政治や戦争の専門家ではないただの素人だが、ウクライナにロシアの傀儡政権ができるまでプーチンは攻撃の手を止めないような気がする。正義の名に拘泥してこのまま戦い続ければ、さらに多くの人々が死に、そして人々の帰る家も仕事も失われる。ならば敢えて顰蹙を買うこと承知で言うが、白旗を掲げるという選択もあるのではないか。ウクライナにはネガティブな選択しかないように思えてならない。あくまで個人的見解だが、同じネガティブな選択ならより多くの人々が生き残ることを考えるべきではないかと思うのである。

 私たちは理想を持って生きるべきだと思う。しかし神なき世界では、現実が理想を阻むということは日常的にあり得るのである。私たちは現実の中で最善の道を模索しなければならない。無常を生きるとはそういうことではないかと思う。

信州安曇野 無常の中に出現した妙である。
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親ガチャ

2021-09-27 11:48:54 | 仏教
 「〇〇ガチャ」という言葉を最近よく聞く。ガチャというのは、お金(硬貨)入れてレバーを回すとカプセルが出てくる、小さな自動販売機のことである。カプセルの中身はいろいろで、何が出てくるかは分からない。そういうところから、自分の意志で選択できないことがらについて、「〇〇ガチャ」と表現するらしい。つまり、親を選んで生まれてきたわけではない、そういう意味で「親ガチャ」だというのである。それを口にする本人は単なる軽口のつもりかもしれないが、自分の子に十分なことをしてやれなかったかもしれないという親にとっては、あまり耳障りの言い言葉ではないだろう。

 子は親を選べない、当たり前である、なにをいまさらという気がする。親も子を選べないのだ。それ以前に、そもそもなぜこのような世界があるのかということが分からない。要するに、何もかもみんなガチャなのだ。なのに、自分の出自と他人のそれを比較することになんの意味があるだろう。鈴木君の両親は優しくて金持ちだからと言って、「鈴木君の家に生まれればよかった。」などというのはナンセンスである。もし鈴木さんの家に生まれていれば、あなたはあなたではなく鈴木君になっていた。ただそれだけのことである。

 誰もが唯一無二の現実の中を生きている。それは比較されるべき性質のものではない。私は私以外のなにものでもない。天上天下唯我独尊というのはそういうことである。決して「私は偉い」と威張っているわけではない。私の実存は比較を絶しているという意味で「唯我独尊」なのである。

どのような景色も無常の世界では、二度と同じものとしてよみがえることはない。唯一無二である。
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多様性と無差別智

2021-08-13 07:27:46 | 仏教
 朝日新聞デジタルに寄せられたはるな愛さんの言葉に感じ入るところがあったのでここで紹介したいと思います。
 
 
 ≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
 「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
 わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫
  
 はるな愛さんはこれまでに何度も「自分は何者であるか?」ということについて、真剣に自問自答してきたのだと思う。その結果、言葉で決めつけることが出来ないという結論を得た。仏教的視点から見れば、それはまた当然のことでもある。あらゆるものが流動していて瞬時もとどまることのない無常の中では、本来固定的な概念は成立しない。それが空ということである。これは一般に思われているほど神秘的な思想でも何でもない。地に足を着け、素朴に考えれば、誰でもそこに行きつく結論である。
 この辺が、「始めに言葉ありき」の西洋思想と大きく違うところである。プラトンのイデア論によれば、われわれ人間はみんなそれぞれ違うのに、みんな人間と分かるのは人間のイデアというものがあるからだと説く。いわば典型的な人間、どの人間でもないが人間である限りの人間、人間の設計図的なものが形而上の領域に存在すると、プラトンは説くのである。しかし、仏教側から見れば、そのような設計図を誰が書くのかということになる。超越的な存在、いわゆる神様がいなければイデアなどというものは成立しない。人間が進化の過程で生まれてきたのであれば、最初の人間は人間以外の親から生まれてきたということになる。では、人間と人間以外の境界をどのように設けることが出来ようか?
 つまり、仏教的見地から厳密に言うと、完全な人間と言える人間はいないのである。どの人間も無常の中では偶然的なもので過渡的なものでしかない。便宜上、あえて「人間」と称しているに過ぎない。「人間は人間に非ず、これを人間と言う。」というのはそういう意味である。 「人間」だけでなく、「LGBT」だとか「身体障碍者」だとか「男」や「女」すべての概念について、このようなことが言えるのである。
 もし、完全な人間や本当の人間というものが存在するのであれば、同性しか(性的に)好きになれない男や女は欠陥者だと言えるかもしれない。しかし、誰もが偶然に生まれたものであり、完全な人間などというものは存在しないのである。だれがどんな性的嗜好を持っていようとそれは偶然のこと、その人の責任とは何のかかわりもないことである。
 私達は言葉に依らなければ思考できない。したがって、私たちは便宜上言葉を使わざるを得ないのだが、言葉が真実に的中することは原理的にありえない、ということは大乗仏教の祖龍樹も言っていることである。私たちは、他人のことを言葉に依って決めつけたがるが、その事には相当用心深くあらねばならないと思うのである。大事なことは、目の前にあることを具体的に見て、そして具体的に対処することである。はるな愛さんの次の言葉が、そのことを教えてくれた。

≪わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。 ≫
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おごらざる人も久しからず

2021-06-07 14:25:57 | 仏教
 太田道灌は若い頃多少傲慢なところがあったらしく、父親がそれをたしなめる意味で「おごれる人も久しからず」とたしなめたところ、道灌は「おごらざる人も久しからず」と答えたらしい。という逸話が小林秀雄の「私の人生論」で取り上げられていることを、小林の実妹である高見澤潤子の「兄 小林秀雄」を読んで知った。

 道潅とその父親のやり取りの仔細はよく分からないが、理屈としては道灌の方が正しいのである。高見澤も「兄は、『諸行無常』という言葉も昔から誤解されていて、一切の現象は、変転して常住でないと解釈されているが、『常なし』というのは心なしということで、全く心ない理法、非人間的な理法ということだ、それを人間が受け入れることは難しい、まともにみる事が出来ないから、目をそらしてしまったというのである。」と述べている。

 ここで「心なし」というのは非情であるという意味である。そこに予定調和的な要素というものはみじんもない。おごれるものだろうがおごらざるものであろうが、無常はそのようなことについては一顧だにしない。つまり、この世界と我々の間にはなんの約束もない。無常観とは、なんの保証もない世界の中に放り出されている実存を意識することに他ならない。

 仏教に関しては、因果応報ということもよく言われるが、これはせいぜい、「タバコを止めたら長生きできる。」というぐらいの意味に解釈しておくべきだろう。因果応報を信賞必罰のように解釈するのは間違いである。仏教には神さまはいないのだから、賞罰を与える主体というものは存在しない。身も蓋もないことのように思えるかもしれない。が、たとえ報われようと報われまいと、常に善い生き方をしなさいと教えるのが仏教である。

 「念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、 また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて 存知せざるなり。」 
 
 上の言葉は、歎異抄の第2条の一部である。念仏を進める親鸞自身が、念仏を唱えれば浄土に行けるか地獄に落ちるか、どうなるか分からないと言っている。一見無責任なことを述べているようにも見えるが、親鸞にはもう念仏にすがるしかないという諦念、それが信仰への覚悟となっているのである。第2条の文言は以下のように続いている。

 「たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、 念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふら う。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける 身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すか されたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もお よびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。」 
 
 もともと「地獄は一定すみかぞかし。」とは無常をそのまま受け入れる覚悟のほどを言うのである。その覚悟ができた時、自分が「柳は緑花は紅」という当たり前の世界の中にいることを再発見するのである。当たり前のどこが有難いのか? というかもしれないが、実は当たり前であることは当たり前ではないのである。

 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
                    (ウィトゲンシュタイン)

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無常という気づき

2021-04-02 11:01:50 | 仏教
 仏教では無常ということをよく言いますが、これは結局「神さまはいない」ということではないかと思います。神という超越者がいてすべてを差配しているなら、この世はあるべき規矩におさまっているわけです。そして、人間なら人間、犬なら犬、猫なら猫、それなりの本質というものが神から与えられているということになるでしょう。しかし、仏教においてはそういうものを企画する超越者を想定しないのです。つまり、人間も犬も自然が設計図も何もないまま偶然につくりあげたものに過ぎない。設計図がないということは人間の人間たる本質も存在しないということです。永い時間が経過すればどんどん変容していくでしょう。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を
 あらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
 はほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 
 日本では無常と言えば平家物語というほど、この冒頭の一節が有名ですが、私はこの文章は仏教的無常観を表現するには不十分であると考えています。「盛者必衰の理」というとなにかそこには予定調和的な響きがあるように思えるからです。無常というのは盛者必衰がお約束ではなく、盛者が盛者のままでおられる保証がないというだけのことであって、そのような理(法則)があるわけではありません。

 神様がいないから、われわれにはなにも保証されていない。それが無常の恐ろしさです。たとえ現在は大金持ちで恵まれた環境にあったとしても、それは見せかけのこと、なんの足場もなく、たった一人でこの大宇宙に面していることに気づく、それが無常観、西洋哲学風に言うと実存的不安です。普段はそのことに気が付かない。私たちの思考が固定的だからです。考え方は常に惰性に流れるからです。幸せな子供は永遠にその状態が続くと思っています。両親のどちらかが亡くなった時、はじめて巨大な運命の渦の中にいる自分の卑小さを思い知るのです。

 では、私たちはどうすれば良いのか? どうにもできません。どう考えても無常の大きさは人知を超えています。それを受け入れる以外にはありません。それが仏教的諦観です。なんの約束も補償も無いながら、ともかく私たちは現に今生きています。これは実に奇跡的なことであります。なんの約束も補償も無いということは、道を歩いている時にいきなり足元の地面が陥没して奈落の底に落ち込む、そういうことが起こったとしても、私たちには文句言える立場にないということであります。そして、実際にそういうことはありえます。が、現実に私たちは生きている。その気づきが大事であると思います。そのことに気づけば、私たちは実に絶妙な世界に生きていることを認めねばならないと思うのです。それがいわゆる「妙」ということであります。私は仏教を系統的に勉強したことは有りませんし、経典などはほとんど読んだことはありませんが、仏教の要諦とはそういうところにあるのではないかと思っています。


美しいミツバツツジ、まさに絶妙の世界。(鎌倉・長谷寺にて)
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