自然園のクリンソウを見てから別の地域のももう少し見たいと
思ったが名所とされる「みどり市鹿田山」やフラワーパークは
やや行くのが億劫なので他を探したら西中之条の「オープンガーデン福田」
に咲いているとの情報で早速訪問。
伊香保経由で「岡崎」、r-35で西進して「植栗」から吾妻川を渡って
「伊勢町下」を左折し中之条中心部からr-53(中之条湯河原線)を
北上して親都神社の推定1kmほど手前のこの看板で現地着。
案内に従ってこの石段を登ると福田邸の玄関前
チャイムを鳴らして訪問を伝えると「番号順にお進みください!
一番から十番まであります」と云われて左手の一番に進むと
そこにはいきなりクリンソウが咲き誇っている。第一印象は茎径が
極めて長い育ち振りで揃って四段まで花が付いていた。
山手の斜面には曲がりくねった遊歩道が設置され一回りするには
歩きでがあり数々の野の花とクリンソウのスペースがもう一面あって
十分堪能、休憩所で福田さんに飲み物を提供されたり来合わせた
地元の方と暫し談笑してガーデンを辞して近くの親都神社に向かった。
中之条クリンソウ
ここに来た理由は「拝殿に奇妙な扁額がある」と聞いて野次馬に
なっただけ。「道の駅」に駐車して県道を少し下って表参道から。
南に見えるのは方角からして榛名連山らしい。
舗装された参道を周囲の巨木を眺めながら登って行く。
やがて享保十三年(1728年)建立と云われる鳥居前。
急な石段の先には拝殿らしい建屋の屋根が見える。
これが拝殿。享保十一年(1726年)に村中でを修復したもので
木造平屋建て、入母屋、銅板葺。
拝殿奥に続くのが本殿。元禄十二年(1699年)に大嵐で大破した
のを村中奉賀で修復をしたもの。
目的の扁額はこれ。薄れて読むのに苦労したが「正一位親都大明神」
で神社の扁額としては確かに珍しい。
享保十四年(1729年)明神様の御神位を頂戴する為に村人が出かけて
「正一位親都大明神」の称号を頂き古来からの七社大明神が改称
されたことに拠るらしい。
「親都神社」と改称されたのは五反田村中すべての神社が合祀された
明治十年(1877年)。
再び道の駅に降りると車道近くに樹齢約700年名物の「大ケヤキ」。
樹高15m、幹回り9.7m、根周り15.1ⅿ、で原町の大ケヤキに次ぐ県内二位。
この他に「親都神社の境内木」として平成十二年(2000年)に
町指定天然記念物に指定されている杉・欅の巨木が56本も林立する。
北に断崖の岩肌を見せる嵩山(789m)は死者の霊が山上に集まる
神聖な地・「霊山」とされてきた。
永禄八年(1565年)に武田軍に攻められた嵩山合戦で激戦の末に
城主・斎藤憲宗は自刃、城虎丸は「大天狗岩」から飛び込んで自決、
斎藤氏一族は婦女子まで自決し嵩山城は落城したという悲劇の山。
少し西に「嵩山三十三番観世音」の配置を刻んだ巨碑がある。
これは嵩山城落城の約百四十年後の元禄十五年(1702年)、
嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者を供養するために、五反田に
住み着いていた江戸の僧・空閑と地域の人々が、坂東三十三番の
観音像を山中に建立した。これが「嵩山三十三番観世音」であり
登山口を第一番目として、山北の池平の第三十三番目に至るまで、
山内に石仏が点在している。
その近くに鳥居がありここが登山口、爺イも観世音を探して
何回もここから山に入っている。
なお、嵩山は「天狗の住む山」とも言われ、現在でも東の峰を
「大天狗」、中の峰を「中天狗」、西の峰を「小天狗」と呼び
それぞれ鎖場があるので面白い周回登山コースでもある。
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山
26勝27敗 (06/04)現在 首位と9.5ゲーム差 四位 5位とのゲーム差 4,5ゲーム
思ったが名所とされる「みどり市鹿田山」やフラワーパークは
やや行くのが億劫なので他を探したら西中之条の「オープンガーデン福田」
に咲いているとの情報で早速訪問。
伊香保経由で「岡崎」、r-35で西進して「植栗」から吾妻川を渡って
「伊勢町下」を左折し中之条中心部からr-53(中之条湯河原線)を
北上して親都神社の推定1kmほど手前のこの看板で現地着。
案内に従ってこの石段を登ると福田邸の玄関前
チャイムを鳴らして訪問を伝えると「番号順にお進みください!
一番から十番まであります」と云われて左手の一番に進むと
そこにはいきなりクリンソウが咲き誇っている。第一印象は茎径が
極めて長い育ち振りで揃って四段まで花が付いていた。
山手の斜面には曲がりくねった遊歩道が設置され一回りするには
歩きでがあり数々の野の花とクリンソウのスペースがもう一面あって
十分堪能、休憩所で福田さんに飲み物を提供されたり来合わせた
地元の方と暫し談笑してガーデンを辞して近くの親都神社に向かった。
中之条クリンソウ
ここに来た理由は「拝殿に奇妙な扁額がある」と聞いて野次馬に
なっただけ。「道の駅」に駐車して県道を少し下って表参道から。
南に見えるのは方角からして榛名連山らしい。
舗装された参道を周囲の巨木を眺めながら登って行く。
やがて享保十三年(1728年)建立と云われる鳥居前。
急な石段の先には拝殿らしい建屋の屋根が見える。
これが拝殿。享保十一年(1726年)に村中でを修復したもので
木造平屋建て、入母屋、銅板葺。
拝殿奥に続くのが本殿。元禄十二年(1699年)に大嵐で大破した
のを村中奉賀で修復をしたもの。
目的の扁額はこれ。薄れて読むのに苦労したが「正一位親都大明神」
で神社の扁額としては確かに珍しい。
享保十四年(1729年)明神様の御神位を頂戴する為に村人が出かけて
「正一位親都大明神」の称号を頂き古来からの七社大明神が改称
されたことに拠るらしい。
「親都神社」と改称されたのは五反田村中すべての神社が合祀された
明治十年(1877年)。
再び道の駅に降りると車道近くに樹齢約700年名物の「大ケヤキ」。
樹高15m、幹回り9.7m、根周り15.1ⅿ、で原町の大ケヤキに次ぐ県内二位。
この他に「親都神社の境内木」として平成十二年(2000年)に
町指定天然記念物に指定されている杉・欅の巨木が56本も林立する。
北に断崖の岩肌を見せる嵩山(789m)は死者の霊が山上に集まる
神聖な地・「霊山」とされてきた。
永禄八年(1565年)に武田軍に攻められた嵩山合戦で激戦の末に
城主・斎藤憲宗は自刃、城虎丸は「大天狗岩」から飛び込んで自決、
斎藤氏一族は婦女子まで自決し嵩山城は落城したという悲劇の山。
少し西に「嵩山三十三番観世音」の配置を刻んだ巨碑がある。
これは嵩山城落城の約百四十年後の元禄十五年(1702年)、
嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者を供養するために、五反田に
住み着いていた江戸の僧・空閑と地域の人々が、坂東三十三番の
観音像を山中に建立した。これが「嵩山三十三番観世音」であり
登山口を第一番目として、山北の池平の第三十三番目に至るまで、
山内に石仏が点在している。
その近くに鳥居がありここが登山口、爺イも観世音を探して
何回もここから山に入っている。
なお、嵩山は「天狗の住む山」とも言われ、現在でも東の峰を
「大天狗」、中の峰を「中天狗」、西の峰を「小天狗」と呼び
それぞれ鎖場があるので面白い周回登山コースでもある。
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山
26勝27敗 (06/04)現在 首位と9.5ゲーム差 四位 5位とのゲーム差 4,5ゲーム
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます