クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎市内白木蓮巡り H-29- 3-31

2017-04-01 14:56:53 | 高崎・甘楽・藤岡方面
拙宅の斜向かいのお宅の庭で例年の如く白木蓮が咲き始めた。梅と桜の花時期を
繋ぐ風物詩でもある。
それで思いついて知っている範囲の高崎の白木蓮を一周りすることにして先ずは
市役所脇の道から高崎公園のややわかり難い駐車場へ。



これが県指定天然記念物にもなっている白木蓮。説明板によるとこの木は高崎藩
第五代藩主の安藤重信(1557-1621)が1619年に植えたものと伝わるので
樹齢は約400年になる。残念ながら今の開花状況は七分程度だが根本付近で四本の
支幹に別れ根本周り4m、枝張り東西13m、南北14m、そして樹高14mもあるので
接写は出来ない。
因みにそれまでの高崎藩主は井伊直政(1561-1602) 酒井家次(1564年-1618)
松平康長(1562年-1633) 松平信吉(1580年-1620)である。



樹高が高すぎて接写は出来ないが枝ぶりはこんな程度。



この木を見守るように一基の歌碑がある。今日の写真は陽光の角度が悪くて
不出来なので過去のブログから転載。



「白木蓮の 花の千万 青空に 白さ刻みて しづもりにけり」 

作者の吉野秀雄氏は高崎の住人なら良く知っている「吉野藤」の創立者、吉野藤一郎の
次男、高商から慶応大学に進学するも肺を病み1931年頃療養の為に鎌倉に移住している。
丁度同じ頃、小生の一家も家族の療養の為に小石川から鎌倉・大町に転居したから偶然にも
ある時期は同じ地で生活した事になる。但し。小生の生まれは1933年だが。

歌人、書家、 文人墨客として名を上げた氏は号を艸心としたが鎌倉に移り住むように
なってからも、故郷への思いは強く、手紙や短歌を通じて友人や
知人との交流を重ねた。この歌は1947年頃の作だが旧友のあら町で石材店を営む
藤沢清七郎に重症だった1967年頃贈ったもので後に清七郎氏は自費でこの碑を建てた。
清七郎氏は創業七代目になる現社長さんの祖父に当たり代々号を「群黄グンコウ」と
しているのでこの碑にも「藤原群黄」と刻まれている。
小生は藤原群黄の名前を「鬼石神社の狛犬」菊が池の「お菊観音像」
富岡製糸場の「行啓記念碑」などて観ているので清七郎の名と歴代繋がる群黄の
名前の関係が現社長さんから聞けてすっきりした。



次の目的地に向かい高崎公園から直ぐ下のR-17の上り車線で城南大橋を潜り次の
琴平神社前信号を右折して琴平(コンピラ)に駐車。直ぐに寺並みの山門。
中はこれは神社の象徴でもあり門守(カドモリ)と言われる随身装束の像。
よく観察すると背中に矢を背負っているらしいので多分「矢大臣」の「看督長(カドノオサ)
門を潜った側はお寺の仁王様と云うか金剛力士。
顔の表情は定石どうりの「あ」の「那羅延金剛」と「うん」の「蜜迹(シャク)金剛」。



目当ての白木蓮はこの山門脇に一本だけ。



第三の目標へは徒歩で城南大橋の下を潜って城南緑地へ。



こんな細道もその昔は「鎌倉街道」。



緑地の白木蓮は二本。



最後はしだれ桜の名所の下滝町「滋眼寺」。
ここのしだれ桜は未だ七分咲きで観客も少ないが枝によっては満開状態も。
入り口でサンシュュに迎えられ 



本堂前



桜の様子



そして肝心の白木蓮の巨木が一本、腰高で接写ができなかった。



これで早回りりの白木蓮は終わり、日曜の天気が良ければ甘楽町の武者行列予定。

ご来訪の序に下のバナーをポチッと。









コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デジブック 『ぐんまの洋蘭展... | トップ | 第33回甘楽町桜祭り武者行列... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

高崎・甘楽・藤岡方面」カテゴリの最新記事