クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

岩櫃城址から岩櫃山 H-16-9-20

2004-09-20 08:09:21 | 吾妻周辺
岩櫃城跡と岩櫃山

平成16年の九月半ば過ぎ、吾妻町ホームページは岩櫃山蜜岩コースと赤岩コースが崩落のため閉鎖されて郷原駅からの登山道は旧赤岩コースのみと公示し、同時に岩櫃城跡からの登山を推奨していた。
昨年の10月、私は第1回目の岩櫃山行きで蜜岩から登り赤岩に降りてきた。二回目は旧赤岩を登って赤岩を降りた。帰りに赤岩を通るのは、このコースに見事なイワヒバの群生が見られるからである。
これを機会にまだ行っていない岩櫃城跡の見学を兼ねて城跡コースで三度目の岩櫃山を目指した。

歴史の跡
この城の歴史は古く、鎌倉時代の坂東武者・吾妻氏の築城による。その後、南北朝動乱の1349年に時の城主・吾妻行盛は南朝・新田一族の里見氏に攻められ自刃、息子の憲行は安中・斎藤氏に匿われ斎藤氏を称した。その八年後、関東管領・上杉憲顕の幕下となり、憲顕の里見氏追討に参加し、岩櫃城を取り戻す。
その200年後、時は移って戦国時代真っ只中の1560年代、吾妻西部は豪族が犇き騒然としていた。滋野一族の鎌原・海野・浦野・西窪・横谷・下屋の諸氏が小さいながら自衛の構えを見せていたのである。
其れより少し前、一人の英傑が吾妻に絡んでいた。真田幸隆がその人であり、名将・昌幸の父、勇将・幸村の祖父である。幸隆の出目には諸説あり判然としない。一般的には本名「幸綱」、1513年生まれとなっている。遠祖は小県・佐久を本拠とする滋野三家(禰津・海野・望月)の海野で「海野棟綱」の子とされている。真田家も鎌倉初期に海野から分かれたとも、幸隆が初めて名乗ったとも伝わっている。
1541年、武田信虎・信濃の村上義清・諏訪頼重連合軍が滋野一族を攻めた「海野平合戦」があり、禰津望月は降伏し、海野棟綱は幸隆共々、鳥居峠を越えて信州街道を通り西上州の斎藤氏の臣・羽尾幸全を頼って落ち延びる。現在の吾妻線「羽根尾駅」近くの羽根尾城跡である。幸隆の妻が幸全の娘だったからであり、幸全は幸隆親子を寄親の箕輪・長野業政に託して保護した。後に斎藤討伐の時、幸隆はこの恩人であり岳父の幸全を殺す羽目になる。父親の棟綱は海野平奪還を関東管領・上杉に依頼するが上杉不信の幸隆は、この頃信虎を駿河に追いやって家督を継いだ武田晴信に賭け、躑躅ヶ先館に赴き武田の被官となる。そして幸隆は信濃先方衆としての活躍から武田の中で地位を築いた。
丁度その時、岩櫃城の斎藤氏が西上州の豪族統一に動き出し、大方は従えたが嬬恋・鎌原氏は幸隆を通じて武田に庇護を求めた。1560年の事である。その2年後の1562年、幸隆は斎藤氏を攻め鎌原城・長野原城を奪還するが、翌年斎藤氏が反撃して長野原城を奪い返す。幸隆の再進攻で斎藤親子は謙信を頼って越後に逃れるが、末子の「城虎丸」は中之条・嵩山城に篭もる。1565年、斎藤氏は越後から戻り岩櫃城を攻撃する。今度は幸隆も徹底して攻撃し、斎藤氏を滅ぼし、嵩山の城虎丸も大天狗の断崖から身を投げ自決した。嵩山全山がこの時の戦死者を弔う霊山となったのは、1702年の事である。
幸隆の深慮・遠謀はその子孫に引き継がれ、関が原では後継の昌幸・幸村が西軍に付いて真田の意地を貫き、信幸は家康に付き家名を残した。尚、勝頼の末期小山田の裏切りを察知し、昌幸の進言通り岩櫃城に逃れていたら天目山の虐殺は無かったろう。幸隆は信玄没年の翌年1574年病死、62歳。

岩櫃城跡への道は、今年の5月に行った龍峨山と同じである。県道28号でいきなり榛名山に登り上げ、吾妻荘から下って郷原に出て少し戻って原町に行くか?標準的に県道35号の通称日陰道を行けば良いか?良く判らないが取り敢えず今回は無難な道を選択した。
自宅から広馬場10.2㌔ 20分、明保野信号21.2㌔ 35分、岡崎信号28.6㌔ 47分、原町大けや木(槻ノ木)40.3㌔ 62分、城跡駐車場43.8㌔ 72分の行程である。日陰道を吾妻に入り、東橋で吾妻川を渡ると槻ノ木信号に出る。そこを左折すると右に吾妻町役場、左に八坂神社があり、群馬原町駅を過ぎると旧道で原町市街地を走る。僅かで前方に145号バイパスの高架が見えその下を潜る手前に小さな川があり其れに掛かる橋を渡ったところに右折の小道がある。
小道は林道風でくねりながらかなりの登り坂となる。「すぎなみ自然村」の道標に従って行くと、間も無く龍峨山への道が右に分かれるが直進する。次ぎの左への分岐も直進すると平沢地区に入り、丁字路にぶつかったら左折し、暫くで50台も収容できる駐車場につくが、その上部にもう一つあるのでそこに駐車する。駐車場からの案内は丁寧で多くの竪堀を通って中城・二の丸を経て本丸跡につく。ここは広々として記念碑の周辺も良く整備されているが、山城と言うことで山の上かと思っていたので意外だった。
岩櫃山は櫓か見張り台だったのか? 本丸西から登山口があるが尾根道と沢道の二つがある。迷わず尾根道を選んだが、最初から登りがきつく、危ないヤセ尾根を渡っていく。30分で尾根を登りきったようで其れから10分で赤岩コースとの分岐に着いた。この赤岩コースは途中から旧赤岩コースが迂回路として分かれる。本来の蜜岩コースは頂上直下から反対側に出る道である。分岐の先の巨大な「天狗の蹴上げ岩」に吃驚しながら進むと分岐から17分で八合目、鎖二つと梯子二つを過ぎ、26分で頂上直下に出る。そこから一旦下ってから梯子を登る正面の突出した岩山が頂上である。本丸から一時間だった。帰りは8合目から沢通りを下るがアップダウンも無い沢のガレ場の下りで所要40分、ついでに
駐車場近くの岩櫃神社に参拝。




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