クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

安中・元助遺跡 H-16-9-14

2004-09-14 07:50:32 | 伝説・史跡探訪
元助遺跡に行くために石尊山から元の道に戻り、榛名駅手前の信号を左折して暫く行くと、右からの林道まがいの道があり、左に抜けて小さな四つ角を作っている。その角に木製の道標で「元助遺跡」とあるので、それに従って登っていくとほんの僅かで駐車場に出る。遺跡は右手にある岩戸山の中腹にあるらしい。竹薮の道を進むこと10分ほどの岩窟にそれはあった。
元助は秋間の百姓の長男であったが、家出をして伊勢・山田辺りを流浪している時、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮に行く途中の片岡源伍右衛門に拾われて下僕となり、赤穂に行く。1701年、主君浅野は切腹、浅野家は断絶し、浪人となった片岡について元助も江戸に向かう。翌年の12月、吉良邸への討ち入りには参加していない。47士が切腹後、元助は秋間村に帰ってきたが、剃髪して諸国を巡錫すること20年余で蓄えた零細な喜捨を使って1726年、秋間村岩戸山の霊場に浅野夫妻と四十七義士の石像を建設した。
それが今に残る元助遺跡であるが、元助は再び飄然と巡錫に出て、二度と故郷に姿を見せることはなかつた。元助は漂泊の上、房州和田浦長香寺に足を止め村民を済度していたが、自らの天命を悟り岩窟に篭もり「予念ずれば火難諸難を徐け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言して入定した。
時に1732年、53歳。地元民は元助を鎮火霊神としてあがめた。その後、時移って明治時代になって秋間の有力者・戸塚氏が元助の軌跡を調べ始め、息子の代になり遂に千葉・和田町に足跡があることを突き止め、1941年現地を尋ねるが、その史跡説明に「元助は石州
浜田の人」の記載を見て驚いて帰郷した。息子・誠太郎氏が1944年に他界するとこの動きも中断するが後を継いで奔走し始めた郷土史家・中沢氏が1953年に浜田市に照会したが、手がかりはなかった。
中沢氏は1963年に和田町を尋ね、種々説明して元助の生地が秋間村であることを了承してもらった。現地の碑文も修正され、双方の関係者が相互訪問して理解を深めた。現在は秋間に保存会もあるようで、安中市指定史跡となっている。
この裏の御殿山の事はこの時期には知らなかったので何れ登る。




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