昨日の白石古墳群の桜見物に続いて今日は小幡へ。
この甘楽町大字小幡の地は「織田氏の城下町」として
知られているが小幡と織田の関係は大坂の夏の陣後の
1615年から8代信邦の時、1766年の内紛、明和事件にも
連座して1767年に出羽高畠に移封されるまでの152年間
の事でありそれ以前は地名の小幡が示すように主に
鎌倉時代から児玉党の一派として名をあげ13世紀初頭に
この地に居住して権謀術策を駆使し小領主として
大国の間隙を縫い戦国を生きた小幡氏の支配下だった。
小幡の街中に入り町の中央を流れる雄川堰に差し掛かると
満開の桜の圧倒的なボリュームに魅了される。道の駅の
駐車場は満車で10分ほど我慢強くグルグル回る空き待ち。
実際に歩き出すと全く同じに整備されつくされているので
見るには最高だが画像を撮るとみんな同じ雰囲気の
似たものしか撮れない。仕方なく流し撮りも試みたが
車と被写体の距離が短か過ぎ通行車が多い上に流れが
意外に早くて対応できなかった。
小幡桜並木
続いて名物の枝垂れ桜見物に3kmほど雄川の上流にある
宝積寺訪問。
この寺院は国峰城を拠点とした小幡氏の菩提寺であり
伝説のお菊事件の時、お菊の助命嘆願をしたとも伝わり
裏手の高台にある小幡氏累代の墓の傍らに
「菊女とその母の墓」があるほどお菊伝説との縁が深い。
豊臣滅亡後にこの地に封ぜられた織田氏も旧領主小幡氏の
菩提寺が宝積寺で格式も高かったため、三代までこの寺を
菩提寺としていたのだが儀式に際しての織田家の席次に不満を
持ったのが原因で四代・織田信久は廃寺であった崇福寺を
改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、宝積寺から三代の
墓石をここへ移したとーーー伝わる。
ここも観光客で大賑わい、枝垂れ桜の周りは人垣。
駐車場を含めソメイヨシノが満開で十分楽しめた。
宝積寺枝垂れ桜
次の機会には枝垂れ桜繫がりで妙義神社へ行って見る。
蛇足 小幡の簡易履歴書
鎌倉時代には既に児玉党の一派として小幡氏の活躍がみられ
13世紀初頭には小幡の地に居住し、勢力を確立していた。
南北朝時代以降、山の内上杉氏が上野国守護となりその
支配力が強固になると、箕輪の雄・長野氏が婚姻政策で
束ねる西上野の拠点の一つとして甘楽の地が重要視され
白倉城、国峯城、庭谷城、天引城などが築城された。
この頃から小幡氏は信貞が主役。
ただしこの御仁、人生の節目に改名する癖があり
1552年・小幡重定。1561年・信実。1572年・信真。
1572年・信貞。1582年・信定。
小幡氏は居城の国峯城に拠ったが 1552年上杉氏の越後亡命後、
武田信玄に通じたのを親族に密告され長野業政に追われた。
1561年信玄が国峰城を奪ってそこに復帰させてもらった以降、
赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって
活躍し長篠の戦には設楽原の決戦に武田騎馬中央隊として
奮戦し後世の武田24将絵図にも常連となる。
武田氏滅亡後は一瞬だけ信長配下の滝川一益に従い、
本能寺の変以後は変わり目早く小田原北条氏の勢力下に
入ったが、1590年小田原の役では小田原籠城。敗戦後に
旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、
信濃塩田郷で余生を送って52歳で病死する。
留守役の国峰城は、子の小幡信秀が守ったが、
前田利家率いる北陸道軍分遣隊藤田信吉に
落とされ城は廃され小幡氏は滅亡する。
但し、滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子たち
が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、
加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官している。
お菊事件に似たことが起きて後に伝説化されたのは
多分転戦で信貞不在の時か小田原籠城の時かも。
1590年から関ケ原決戦直後の1601年までの11年間は、
小幡領2万石で奥平信昌が領主となり、国峯城の
支城であった富岡の宮崎城に入った。
1601年から1602年は、信昌四男・松平忠明、1602年
から1615年までは水野忠清。そして1615年7月、信長
の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が
与えられ、1616年に信雄の子信良が福島の陣屋に入り、
織田氏による小幡支配が開始されたのである。
そして152年が過ぎ、8代信邦の1767年に不祥事により
信邦蟄居、弟・信浮は養子として出羽高畠2万石に
移封。跡に座ったのは松平忠恒でその4代目忠恕は、
小幡藩最後の藩主として1869年に版籍奉還。
従って織田家累代の墓は七代までで信邦は入っていない。
ーーというのがこの地の略歴。
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9勝4敗(4/8現在 単独首位)
この甘楽町大字小幡の地は「織田氏の城下町」として
知られているが小幡と織田の関係は大坂の夏の陣後の
1615年から8代信邦の時、1766年の内紛、明和事件にも
連座して1767年に出羽高畠に移封されるまでの152年間
の事でありそれ以前は地名の小幡が示すように主に
鎌倉時代から児玉党の一派として名をあげ13世紀初頭に
この地に居住して権謀術策を駆使し小領主として
大国の間隙を縫い戦国を生きた小幡氏の支配下だった。
小幡の街中に入り町の中央を流れる雄川堰に差し掛かると
満開の桜の圧倒的なボリュームに魅了される。道の駅の
駐車場は満車で10分ほど我慢強くグルグル回る空き待ち。
実際に歩き出すと全く同じに整備されつくされているので
見るには最高だが画像を撮るとみんな同じ雰囲気の
似たものしか撮れない。仕方なく流し撮りも試みたが
車と被写体の距離が短か過ぎ通行車が多い上に流れが
意外に早くて対応できなかった。
小幡桜並木
続いて名物の枝垂れ桜見物に3kmほど雄川の上流にある
宝積寺訪問。
この寺院は国峰城を拠点とした小幡氏の菩提寺であり
伝説のお菊事件の時、お菊の助命嘆願をしたとも伝わり
裏手の高台にある小幡氏累代の墓の傍らに
「菊女とその母の墓」があるほどお菊伝説との縁が深い。
豊臣滅亡後にこの地に封ぜられた織田氏も旧領主小幡氏の
菩提寺が宝積寺で格式も高かったため、三代までこの寺を
菩提寺としていたのだが儀式に際しての織田家の席次に不満を
持ったのが原因で四代・織田信久は廃寺であった崇福寺を
改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、宝積寺から三代の
墓石をここへ移したとーーー伝わる。
ここも観光客で大賑わい、枝垂れ桜の周りは人垣。
駐車場を含めソメイヨシノが満開で十分楽しめた。
宝積寺枝垂れ桜
次の機会には枝垂れ桜繫がりで妙義神社へ行って見る。
蛇足 小幡の簡易履歴書
鎌倉時代には既に児玉党の一派として小幡氏の活躍がみられ
13世紀初頭には小幡の地に居住し、勢力を確立していた。
南北朝時代以降、山の内上杉氏が上野国守護となりその
支配力が強固になると、箕輪の雄・長野氏が婚姻政策で
束ねる西上野の拠点の一つとして甘楽の地が重要視され
白倉城、国峯城、庭谷城、天引城などが築城された。
この頃から小幡氏は信貞が主役。
ただしこの御仁、人生の節目に改名する癖があり
1552年・小幡重定。1561年・信実。1572年・信真。
1572年・信貞。1582年・信定。
小幡氏は居城の国峯城に拠ったが 1552年上杉氏の越後亡命後、
武田信玄に通じたのを親族に密告され長野業政に追われた。
1561年信玄が国峰城を奪ってそこに復帰させてもらった以降、
赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって
活躍し長篠の戦には設楽原の決戦に武田騎馬中央隊として
奮戦し後世の武田24将絵図にも常連となる。
武田氏滅亡後は一瞬だけ信長配下の滝川一益に従い、
本能寺の変以後は変わり目早く小田原北条氏の勢力下に
入ったが、1590年小田原の役では小田原籠城。敗戦後に
旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、
信濃塩田郷で余生を送って52歳で病死する。
留守役の国峰城は、子の小幡信秀が守ったが、
前田利家率いる北陸道軍分遣隊藤田信吉に
落とされ城は廃され小幡氏は滅亡する。
但し、滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子たち
が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、
加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官している。
お菊事件に似たことが起きて後に伝説化されたのは
多分転戦で信貞不在の時か小田原籠城の時かも。
1590年から関ケ原決戦直後の1601年までの11年間は、
小幡領2万石で奥平信昌が領主となり、国峯城の
支城であった富岡の宮崎城に入った。
1601年から1602年は、信昌四男・松平忠明、1602年
から1615年までは水野忠清。そして1615年7月、信長
の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が
与えられ、1616年に信雄の子信良が福島の陣屋に入り、
織田氏による小幡支配が開始されたのである。
そして152年が過ぎ、8代信邦の1767年に不祥事により
信邦蟄居、弟・信浮は養子として出羽高畠2万石に
移封。跡に座ったのは松平忠恒でその4代目忠恕は、
小幡藩最後の藩主として1869年に版籍奉還。
従って織田家累代の墓は七代までで信邦は入っていない。
ーーというのがこの地の略歴。
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