クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高山村雑感 H-19-3-31

2007-03-31 19:50:22 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
(1)峰城址の事
先日、二階山へのハイキングの帰途、路傍に「峰城址」の道標を
見つけて一山登ったが何も発見出来ず、送電線鉄塔だけを見て
カモシカと睨めっこして帰ってきたがこれが大変な間違い。
帰宅して地形図を調べたら峰城址は鉄塔からもう一山北側の
二等三角点・北城のある968m峰であった。

ここは1.5k南の中山新城の狼煙台であった様で、峰城との命名は
古城址の権威・山崎一氏によるとの事。何れ、訪ねる事になりそうだ。
但し、「あかぎ出版」が四年ほど前に発刊した「山崎一著・群馬の古城」
は同氏の歿後に名著・群馬県古城塁址の研究を底本にして発行されたものだが
P-44の高山村古城址分布図にはこの城址位置の丸印が本来の三角点位置
とは相当離れた送電線の上にマークされている。同氏の文中説明に三角点山が
城址との記述があるので爺イと同じ間違いを犯している。
著者の歿後に其の人の名を使って出版するのに監修者は居ないのかな?

高山辺に君臨した中山氏は元を正せば「阿佐美氏」でれっきとした藤原が出目。
赤松円心に従った11代目が武功により官位と中山姓を賜ったとか。
代々鎌倉幕府の武将であつたが戦国時代に去就興亡の世に放り出される。
掻き回したのは眞田幸隆、1563年に岩櫃城主・斎藤氏を詐略にかけ
城虎丸の嵩山立て篭もりが始まる。この時、一緒に篭城して敗戦の憂目を
見たのが高山衆の尻高と中山勢。其の後、逼塞していたが1571年、再び
幸隆に攻められて尻高も中山もあっさり降伏。実はこの地域の弱小城主は
武田が来れば武田に降り、上杉が来れば其方に尻尾を振ることで生き延びて
きたからである。事実、この時も幸隆が帰陣すると直ちに上杉に寝返っている。
信玄の死後も波瀾は続くが勝頼の時代、当時の沼田城主・眞田昌幸を攻め
ようとした沼田の旧主・沼田氏を騙まし討ちにして、その恩賞として中山・
尻高は本領安堵を得ている。1585年、昌幸が上田城で徳川と戦っている
ドサクサに紛れて中山は北条に奪われてしまう。
1588年になつて秀吉の斡旋で沼田城が北条、名胡桃城(月夜野)が眞田と
配分される。が、名胡桃が欲しい北条は中山氏を仲間にして名胡桃を奪う。
成功すれば中山城を与えるとの密約があったらしい。これに怒った昌幸が
秀吉に訴えでて違約の罰として小田原攻めが始まった。
つまり、天下の体制を決めた秀吉の小田原攻めは、ここの名胡桃・中山城が
発端だったのだ。矢張り、歴史探訪で名胡桃・中山新城共々再訪しよう。


(2)北山の事
「二階山に北山の標識」と云う事は不適切として修正したが、爺イにはこの二つが
別々の山であるとはどうしても感じられない。二つの場所の間の道には全く高低差が
ないから。でも北山標識を付けてあるのは間違いであると云う事ではないと思う。
300選氏の記事でも「破風山」と「二階山」は旧新治村では「南山」、
高山村では「北山」と云われていると書いてある。つまり、同一山塊なのだ。

この件を「高山村誌」て゛調べてみた。
ここでは「北山山地」との標題で説明がしてある。その要約は下記。
高山村の北方の二階山・破風山・切ヶ久保・金毘羅峠を含める一連の
高地を総称して「北山」と称する。その形成を探ると、この北山と同質の
地質のものが吾妻耶山・三峰山・雨乞山・片品川にも見られるので、かって
これらの一帯は巨大な一連の高地であった。この高地の中で何らかの地殻変動
による低部を狙った雨水の浸食が赤谷川・片品川・利根川になり高地を削剥して
低い谷を造り、巨大高地は幾つかに分断されて異なった山峰を形成した。
この分断された高地の一つが北山であると考えられる。従って二階山も
北山標識の場所もどう見ても単独の火山のような円錐形ではなくて別の山の感じ
がしないのは当然だろう。あの北山標識は一連の山並の総称標識と思えば良い。


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