未だ、三月末なのに高崎市街地のソメイヨシノが満開になり
例年の花時には散ってしまいそうな気配。
今年は冬の寒気があれほど強くしかも長く続いたのに桜満開が
こんなに早いとは思いもしなかったがこれは爺イの知識不足による
間違った思い込みだったことが判明。
結論から言うと桜は暖冬で花芽が寒さに十分さらされないときには、
花が咲くのは遅くなるとのこと。つまり、7~8月には葉っぱの付け根に花芽
ができ、秋には花芽のままで眠りにつく。そして冬の寒い空気にさらされると、
徐々に眠りから目覚めてその後、気温がだんだんと高くなると、花芽が大きく
なって花が咲く。桜が咲く時期は春の暖かさだけでなく、冬の寒さも必要と云う事。
今年はせっせと花巡りをしたが市内が満開になったので一巡してもうお終いにする。
最初は観音山丘陵。三千本と豪語するだけあって、護国神社からの登山路は
まさに桜のトンネル状態。観音像裏の道に駐車して先ず観音山山頂に登り
標識や三角点に挨拶してから境内を散策。平日にも関わらず大勢が見頃の
桜を楽しんでいた。まさに平和な光景だ。
次に行ったのは市役所裏の高崎公園。ここの駐車場は狭く河鹿橋の待機を
連想させるような長い入場待ちを強いられた。
中に入ってその原因判明、折から子供たちの春休みのせいか親子連れが
多く、小動物園や遊具で遊んでいるし、大人たちは桜の木の下に敷物を
広げて小宴会があちこちで。爺イの様に通りすがりの撮影者は少数。
従って一旦入ったら滞在が長いので駐車場の回転が最悪なのだ。
公園から徒歩で市役所前の広場、更には堀端の城址公園。車は置きっぱなし
だったから爺イも回転の悪さに加担してしまった。
その様子はyoutubeで。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、その途中から再開は
右向き矢印、終了してからもう一度見るには左下に現れる反時計回り
反転マークをクリック)
高崎市内桜花巡り
蛇足 だそく ダソク
観音山で出会った御仁が観音像建設の井上工業・井上保三郎氏の立像の
前で「田中角栄さんは井上工業で使い走りだったんだよ」というので
初耳のことで半信半疑と云うより高崎との縁があったとは聞いていないので
「何言ってんだ?」で聞き流したが帰宅後に調べたらホントだったので
正に驚きで花時期の件と併せて二度目の開眼。長生きはするもんだ。
角栄さんの政界入り前の履歴は1943年田中土建工業を設立しか知ら
無かったが1934年に有力者が書生に採用するという話が持ち込まれ、上京したが
それは果たせず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで就職
働きながら、中央工学校に通ったらしい。丁度其の頃、井上工業で観音像建立
計画が進行中であった。1934年の群馬での陸軍大演習で天皇拝謁に感激した
高崎の井上保三郎は十五連隊戦死者を慰霊する高崎白衣観音の建立を決意し、
数年後に完成させている。像の原型は、森村酉三氏が制作し、完成した原型を池袋にあった
アトリエから、日本橋の井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、角栄さん
であったという話だか本人が回顧録で「生涯忘れ得ぬ出来事」と述懐している
というからホントの話だろう。因みに後にロッキード事件で角栄さんが世間より
批判を受けても井上工業は支持者であり続けたという。
角栄さんは1939年に入営し満州国富錦で兵役に就きモンハンでも活躍したが
1940年、上等兵の時にクルップ性肺炎を発症、1941年に除隊、そして
田中土建工業を設立したのが1943年である。
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例年の花時には散ってしまいそうな気配。
今年は冬の寒気があれほど強くしかも長く続いたのに桜満開が
こんなに早いとは思いもしなかったがこれは爺イの知識不足による
間違った思い込みだったことが判明。
結論から言うと桜は暖冬で花芽が寒さに十分さらされないときには、
花が咲くのは遅くなるとのこと。つまり、7~8月には葉っぱの付け根に花芽
ができ、秋には花芽のままで眠りにつく。そして冬の寒い空気にさらされると、
徐々に眠りから目覚めてその後、気温がだんだんと高くなると、花芽が大きく
なって花が咲く。桜が咲く時期は春の暖かさだけでなく、冬の寒さも必要と云う事。
今年はせっせと花巡りをしたが市内が満開になったので一巡してもうお終いにする。
最初は観音山丘陵。三千本と豪語するだけあって、護国神社からの登山路は
まさに桜のトンネル状態。観音像裏の道に駐車して先ず観音山山頂に登り
標識や三角点に挨拶してから境内を散策。平日にも関わらず大勢が見頃の
桜を楽しんでいた。まさに平和な光景だ。
次に行ったのは市役所裏の高崎公園。ここの駐車場は狭く河鹿橋の待機を
連想させるような長い入場待ちを強いられた。
中に入ってその原因判明、折から子供たちの春休みのせいか親子連れが
多く、小動物園や遊具で遊んでいるし、大人たちは桜の木の下に敷物を
広げて小宴会があちこちで。爺イの様に通りすがりの撮影者は少数。
従って一旦入ったら滞在が長いので駐車場の回転が最悪なのだ。
公園から徒歩で市役所前の広場、更には堀端の城址公園。車は置きっぱなし
だったから爺イも回転の悪さに加担してしまった。
その様子はyoutubeで。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、その途中から再開は
右向き矢印、終了してからもう一度見るには左下に現れる反時計回り
反転マークをクリック)
高崎市内桜花巡り
蛇足 だそく ダソク
観音山で出会った御仁が観音像建設の井上工業・井上保三郎氏の立像の
前で「田中角栄さんは井上工業で使い走りだったんだよ」というので
初耳のことで半信半疑と云うより高崎との縁があったとは聞いていないので
「何言ってんだ?」で聞き流したが帰宅後に調べたらホントだったので
正に驚きで花時期の件と併せて二度目の開眼。長生きはするもんだ。
角栄さんの政界入り前の履歴は1943年田中土建工業を設立しか知ら
無かったが1934年に有力者が書生に採用するという話が持ち込まれ、上京したが
それは果たせず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで就職
働きながら、中央工学校に通ったらしい。丁度其の頃、井上工業で観音像建立
計画が進行中であった。1934年の群馬での陸軍大演習で天皇拝謁に感激した
高崎の井上保三郎は十五連隊戦死者を慰霊する高崎白衣観音の建立を決意し、
数年後に完成させている。像の原型は、森村酉三氏が制作し、完成した原型を池袋にあった
アトリエから、日本橋の井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、角栄さん
であったという話だか本人が回顧録で「生涯忘れ得ぬ出来事」と述懐している
というからホントの話だろう。因みに後にロッキード事件で角栄さんが世間より
批判を受けても井上工業は支持者であり続けたという。
角栄さんは1939年に入営し満州国富錦で兵役に就きモンハンでも活躍したが
1940年、上等兵の時にクルップ性肺炎を発症、1941年に除隊、そして
田中土建工業を設立したのが1943年である。
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何時も更新の際毎に拝見しています。
観音様は目立つので知っていましたが高崎公園の桜が此程綺麗だとは
思いませんでした。
又、井上工業の話はとても興味深く読ませて頂きました。
此からもBlog記事の更新楽しみにして居ます。
コメント有り難うございます。昭和一桁生まれ、軍国少年の成れの果てですがショボショボと動き回って
老化の先延ばしを図っています。
丸沼高原の記事、羨望の思いで拝見しました。
お元気でのご活躍を!