クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

新町宿界隈散歩道(1) H-21-12-20

2009-12-21 16:31:39 | 伝説・史跡探訪
かっての宿場町で高崎市と合併した新町の史跡探訪。

1600年の関ヶ原の戦いに勝利した家康は翌年には街道と宿駅
の整備に着手したが東海道と中山道は特に幹線道路としての
整備を急いだ。
そして1604年には宿場制度がほぼ整った。だか、この新町は
この時点では未だ宿場ではなく、その後の中山道の発展と共に
次第に開ける様になり、1644年頃に加賀の前田氏が参勤交代の
折に従来の倉賀野・玉村・本庄ラインを変更して倉賀野・新町・
本庄とした事で新町宿の原形が成立する。そして1651年になって
伝馬役を命じられた落合新町と笛木村が1654年に合併して宿駅を
開設し漸く新町宿が誕生。
現在、埼玉側に地名の残る毘沙吐村の一部が合併するのは後年の事。



(1)閻魔堂
 
R-17で倉賀野を経て藤岡を一瞬跨いでから新町駅前信号を
左折して7-11に駐車。
西への小道を入って小さな四つ角にひっそりと閻魔堂。



堂の左側に神流川合戦の供養塔。地味の上に彫りが薄くて目立たない。



(2)堂場墓地 

閻魔堂の隣に接して墓地が広がっている。かって宿場を賑わした遊女の
墓が数基あると聞いているが、似ているのが多数で
確認は出来なかった。



新町宿場には飯盛女が多数居て実質的に
遊郭のようで宿場の賑わいの元にもなっていたが、その多くは
越後方面から身売りしてきた女たちだった。
若くして死んでいった薄幸な無名女性たちを弔っている。

竹本土佐大夫、竹本百合大夫の墓

浄瑠璃の名跡と言われた二人が晩年を新町で過ごし、この地で
没している。中央やや西よりに案内看板付きで二つ並んで。






山崎栄造の墓。

明治27年の群馬県最初の人体解剖に体を提供した人。



群馬県医学校の初代校長だった大久保適斎に恩のある栄造が
死後の献体を申し出たという。北側の塀際にポツンと。

(3)境野清衛碑

墓地の反対側に巨大な境野清衛碑。養蚕飼育改良と普及に尽くし
新町に養蚕伝習所を設立して子弟を多数教育した人。





(4)弁財天 

新町駅入り口信号を左(西)折して温井川に向かいこの公園に
駐車。



その真中に由来説明板付きの弁財天。





(5)弁財天芭蕉句碑 新町の俳人・久保一静の建立。
刻字が薄くて読み取りが困難。



「むすぶより はや歯にひびく 泉かな」
当時はこの辺に清水が湧き出て居たのだろう。

(6)スリーデーマーチの碑 

弁天橋に戻ると



この碑文。





1978年、日本初の「あるけあるけ全国大会」が新町で開催され
今では拠点を東松山に移したが世界大会までの発展の元はここ。

(7)虚空蔵 
土手のサイクリングロードを東に向かうと数百㍍で土手左下に
虚空蔵公園が見える。



神流川と烏川の合流点にある新町は度々の大洪水に苦しめられ
てきた。この虚空蔵は1278年に洪水の難を逃れるために
作られたと伝わる。

猿田彦大神を真中に左に道祖神、右に庚申。



大正四年の御大典記念桜樹栽植碑、在郷軍人会の設立。



その桜の巨木を一寸離れて見るとこの景観。



この一帯は見晴らしが良く、赤城と



榛名。



(8)八幡宮 

再び公園に戻って近くの八幡宮。



大絵馬三枚はいずれも宿場の遊女の奉納と伝わる。

「勿来関」郎党二人を従えた騎馬武者



「花草図」八重桜を画面の上部に、草花を控えめに下部に



「紅葉狩」 平維盛か鬼女を討とうとしているもの。



ここに文化財指定の神輿が入っているらしい。



(9)宝勝寺 

八幡宮の隣の宝勝寺に移動。


 
小判供養塔

神社との境にひっそりと供養塔。



1929年、下水堀り最中に小判の入った甕か発見された。
協議の末に、発見者・土地所有者・旧地主・旧借家人に
分配され、配分された人々が建立。
一時は土師静大夫が自決した原因の盗難品の噂も。

吉江川二の墓

墓地の真中辺に変わった形の墓石。
江戸時代の文化の栄えた1880年代、新町でも多くの俳人が現われる。
その代表の一人が吉江川二。旅籠「えびや」の豪家出身。



松平甲斐守母堂の墓



参勤交代の途中に小林本陣で急死した方の墓。1794年寛政6年。

高橋重太夫墓誌と小林伊左衛門墓。

1700年代、宿場の体制作りに貢献した二人。

高橋重太夫は宿内有数の分限者で多額の私財を投じて貢献。
鏑川に船運を開いたり角渕に新町河岸を設置した。



小林伊左衛門は烏川の渡船権を取得して新町に活気を齎した。



古戦場碑の傍らにある「明和五年」とだけ刻まれた「明和観音」は
小林伊左衛門の作とされている。
山縣大弐と親交のあつた伊左衛門が処刑された者への供養として
作ったが幕府の弾圧を避けて年月だけ彫ったとの伝承。

久保一静の墓

1800年代後半に活躍した新町俳壇の逸材。84歳の長命。
弁天島に芭蕉句碑を建設した。辞世「きまざまな 夢見て夢の
名残かな」  墓地内を探したが発見できず。

(10)小林本陣

宝勝寺から北の県道の傍。表示の白杭以外何もなし。



新町宿の本陣は小林家と久保家で脇本陣は三俣家。



次ページに続く

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