(1)飯塚・長泉寺の「花魁地蔵」
飯塚南信号を右折して東進で二百㍍、高崎貨物の向い合いに「長泉寺」。
ここの山門脇に六地蔵と並んで曰くありげな石像が一つ。
花魁地蔵と言われているが、縁起の話は長くなるが
「笠間城主」の牧野越後守は男子に恵まれず、息女を男子として届け出。
年を経て近習の島崎左近と恋仲になったとき、将軍家から嫁の押し付け、
思い余って二人を逐電させるが事の露見を恐れた重臣に飯塚で暗殺される。
村人は花魁と若侍との心中として往還に地蔵を建てたと言うが後に
区画整理で長泉寺預かりとなる。村の東北には「左近塚」もあったという。
(2)同じ飯塚・長泉寺の「酒呑地蔵」
明治の初め、村一番の酒呑百姓が夢のお告げで左近塚近くの水路から
地蔵を拾い上げて祭ったら大いにご利益があり、お賽銭も多くなった。
村人はそのお賽銭をあてにして酒ばかり飲んで働かなくなる。
村役の訴えでその地蔵はご用となったが、もとより取り調べには
黙して語らず、遂に長年寺に下げ渡し。村人はこれに懲りて酒を止め
働くようになったとさ。一寸、大岡もどきでふざけ半分かな。
本堂前の桜の大木の下。
(3)飯塚・常福寺の「視目嗅鼻(ミルメカグハナ)」
長泉寺から北に向い飯玉神社の向いに静かな常福寺。門前の十王様の
石像に混じって、珍しい石像がある。台の上に首二つ。
これが「人頭幢(ドウ)」という閻魔様の備品の一つで又の名を
視目嗅鼻と言うそうである。本来、十王経での閻魔大王は左右に幢を立て
上に人頭を載せているがこの石像は造りの関係からか、一つになっている。
幢とは旗のこと。右の幢は「黒闇天女」といって閻魔の后で禍を撒き
散らす厄介な御仁、左の幢は「太山夫君」で閻魔の太子、厳正の神。
閻魔は、元を正せばインドの福徳の「焔摩天」、「魔」ではなく「摩」。
中国に伝わってから何故か地獄の番卒に変貌し、そのまま日本に持ち込まれ
亡者には都合の悪い存在になってしまった。
多くの地獄絵の中で視目嗅鼻は浄玻璃の鏡や罪状を測る天秤と共に閻魔の
備品とされた。
(4)下小鳥・蓮華院の「愛染明王」
下小鳥の大きな寺・蓮華院の山門を潜って直ぐ右手に「愛染明王」の石像がある。
1706年のもの。
インドの一部族の神という発祥に関係無く、仏教に取り入れられ日本に
伝わってからは愛染を「逢い始め」と解して粋筋に、又「藍染」に絡めて
「紺屋」から信仰されたらしいが小鳥地区ではそのどちらも関連が無い。
造立の「十二月二十六日」からの推定では「二十六夜待ちの信仰」の講中
の関係らしい。
予想外の奪衣婆も発見。
(5)楽間・薬師堂の閻魔の備品
浜川を北上して行力から左折して薬師堂を探しに楽間へ。曲りくねった農道を
ウロウロして漸く、楽間第一公民館の敷地で薬師堂を発見。
但し、大分整備されていて石像は裏の方へ一まとめ。ドレが鏡か天秤か
分からず撤退。帰宅後、「徐徐漂たかさき」の著者・内山信次氏に
電話で問い合わせ。探す要領を伝授されたので明日にでも出なおし。
(6)豊岡・常安寺の山門掲額
楽間から環状腺に出て豊岡の常安寺。ここは我が家の菩提寺でもあるが
今まで迂闊にも山門掲額の事に付いては知らなかった。
この寺は1596年、弥津(ネズ)常安の創建。弥津氏は
武田に降ったが信州の名門豪族。1893年の大火でも山門だけは残った。
1802年に太田蜀山人が旅の途中でこの山門掲額の署名を見て、旅日記
「仁戎紀行」に「署名に勝煥図篆とあるが、これは荻生徂徠の弟子の東野
のこと、どうしてこんな所に?」と書いているそうである。
東野とは徂徠門下の秀才で柳沢吉保の儒臣で能書家として著名。
多分、当時の新高崎藩主・松平輝貞(爺イのご贔屓・松平右京殿)と
吉保に親交が有った為らしいとは内山氏の推論。
(7)豊岡・薬王寺の石幢
常安寺から南に向って若宮八幡脇をすり抜け、旧18号を渡って薬王寺。
墓地の入り口に石幢がある。石灯籠に似てはいるが火袋に当る龕部が
四角で阿弥陀・観音・勢至の三尊を彫りだし、他の三面には夫々ニ体の
地蔵が刻まれている。
これは銘は無いが総社町の光厳寺のものと同時代と推定されるが、1500年
にはこの寺は残念ながら未だ創建されていない。
しかし、寺内の墓石には中世のものもあるので、念仏堂ぐらいがあって、
それに捧げられたものとも推定できる。この時代、全国的な騒乱の時で、
武士に限らず商人も農民も武器を持って戦った。
何らかの手立てをして地獄行きを逃れて極楽行きを願ったのであろう。
(内山氏著書よ)
(8)道祖神社の「童形七福神」
市内に戻って敬老の日のイベントのため、大渋滞の中を高崎神社へ。
ここの一番奥に道祖神社。
もっとも神社名の標示は無く、石柱に「羅漢町」とある。とすると、
これは昔、高崎神社に合祀された羅漢町の鎮守様ではないのかな?
しかし、社殿の正面にあるのは確かに「童形七福神」だが。
高崎で七福神が揃っているのはここだけ。
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飯塚南信号を右折して東進で二百㍍、高崎貨物の向い合いに「長泉寺」。
ここの山門脇に六地蔵と並んで曰くありげな石像が一つ。
花魁地蔵と言われているが、縁起の話は長くなるが
「笠間城主」の牧野越後守は男子に恵まれず、息女を男子として届け出。
年を経て近習の島崎左近と恋仲になったとき、将軍家から嫁の押し付け、
思い余って二人を逐電させるが事の露見を恐れた重臣に飯塚で暗殺される。
村人は花魁と若侍との心中として往還に地蔵を建てたと言うが後に
区画整理で長泉寺預かりとなる。村の東北には「左近塚」もあったという。
(2)同じ飯塚・長泉寺の「酒呑地蔵」
明治の初め、村一番の酒呑百姓が夢のお告げで左近塚近くの水路から
地蔵を拾い上げて祭ったら大いにご利益があり、お賽銭も多くなった。
村人はそのお賽銭をあてにして酒ばかり飲んで働かなくなる。
村役の訴えでその地蔵はご用となったが、もとより取り調べには
黙して語らず、遂に長年寺に下げ渡し。村人はこれに懲りて酒を止め
働くようになったとさ。一寸、大岡もどきでふざけ半分かな。
本堂前の桜の大木の下。
(3)飯塚・常福寺の「視目嗅鼻(ミルメカグハナ)」
長泉寺から北に向い飯玉神社の向いに静かな常福寺。門前の十王様の
石像に混じって、珍しい石像がある。台の上に首二つ。
これが「人頭幢(ドウ)」という閻魔様の備品の一つで又の名を
視目嗅鼻と言うそうである。本来、十王経での閻魔大王は左右に幢を立て
上に人頭を載せているがこの石像は造りの関係からか、一つになっている。
幢とは旗のこと。右の幢は「黒闇天女」といって閻魔の后で禍を撒き
散らす厄介な御仁、左の幢は「太山夫君」で閻魔の太子、厳正の神。
閻魔は、元を正せばインドの福徳の「焔摩天」、「魔」ではなく「摩」。
中国に伝わってから何故か地獄の番卒に変貌し、そのまま日本に持ち込まれ
亡者には都合の悪い存在になってしまった。
多くの地獄絵の中で視目嗅鼻は浄玻璃の鏡や罪状を測る天秤と共に閻魔の
備品とされた。
(4)下小鳥・蓮華院の「愛染明王」
下小鳥の大きな寺・蓮華院の山門を潜って直ぐ右手に「愛染明王」の石像がある。
1706年のもの。
インドの一部族の神という発祥に関係無く、仏教に取り入れられ日本に
伝わってからは愛染を「逢い始め」と解して粋筋に、又「藍染」に絡めて
「紺屋」から信仰されたらしいが小鳥地区ではそのどちらも関連が無い。
造立の「十二月二十六日」からの推定では「二十六夜待ちの信仰」の講中
の関係らしい。
予想外の奪衣婆も発見。
(5)楽間・薬師堂の閻魔の備品
浜川を北上して行力から左折して薬師堂を探しに楽間へ。曲りくねった農道を
ウロウロして漸く、楽間第一公民館の敷地で薬師堂を発見。
但し、大分整備されていて石像は裏の方へ一まとめ。ドレが鏡か天秤か
分からず撤退。帰宅後、「徐徐漂たかさき」の著者・内山信次氏に
電話で問い合わせ。探す要領を伝授されたので明日にでも出なおし。
(6)豊岡・常安寺の山門掲額
楽間から環状腺に出て豊岡の常安寺。ここは我が家の菩提寺でもあるが
今まで迂闊にも山門掲額の事に付いては知らなかった。
この寺は1596年、弥津(ネズ)常安の創建。弥津氏は
武田に降ったが信州の名門豪族。1893年の大火でも山門だけは残った。
1802年に太田蜀山人が旅の途中でこの山門掲額の署名を見て、旅日記
「仁戎紀行」に「署名に勝煥図篆とあるが、これは荻生徂徠の弟子の東野
のこと、どうしてこんな所に?」と書いているそうである。
東野とは徂徠門下の秀才で柳沢吉保の儒臣で能書家として著名。
多分、当時の新高崎藩主・松平輝貞(爺イのご贔屓・松平右京殿)と
吉保に親交が有った為らしいとは内山氏の推論。
(7)豊岡・薬王寺の石幢
常安寺から南に向って若宮八幡脇をすり抜け、旧18号を渡って薬王寺。
墓地の入り口に石幢がある。石灯籠に似てはいるが火袋に当る龕部が
四角で阿弥陀・観音・勢至の三尊を彫りだし、他の三面には夫々ニ体の
地蔵が刻まれている。
これは銘は無いが総社町の光厳寺のものと同時代と推定されるが、1500年
にはこの寺は残念ながら未だ創建されていない。
しかし、寺内の墓石には中世のものもあるので、念仏堂ぐらいがあって、
それに捧げられたものとも推定できる。この時代、全国的な騒乱の時で、
武士に限らず商人も農民も武器を持って戦った。
何らかの手立てをして地獄行きを逃れて極楽行きを願ったのであろう。
(内山氏著書よ)
(8)道祖神社の「童形七福神」
市内に戻って敬老の日のイベントのため、大渋滞の中を高崎神社へ。
ここの一番奥に道祖神社。
もっとも神社名の標示は無く、石柱に「羅漢町」とある。とすると、
これは昔、高崎神社に合祀された羅漢町の鎮守様ではないのかな?
しかし、社殿の正面にあるのは確かに「童形七福神」だが。
高崎で七福神が揃っているのはここだけ。
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