クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第11回箕輪城まつり見物 H-25-10-27

2013-10-28 15:42:34 | 伝説・史跡探訪
二年振りに四回目の箕輪城まつりの見物。何時も駐車場所に苦労するので整備のため
休館中の箕郷町図書館に車を置かせて貰う。



近道をして武者行列出発点の箕郷支所へ裏から入ると既に多くの参加者が集まっていた。



最初は箕郷町弓道愛好会の三人による「和弓礼射」。







それが終わると出陣式で支所長挨拶の後、武者たちが抜刀して気勢を挙げる。



出口近くの大砲で祝砲、予想外の轟音と発煙に観客から驚きの声。



観客が移動しても大砲関係者は次の出番に備えて手入れを念入りに。



武者行列が動き出す。先頭はこの子供達のお囃子の山車だが引くのも子供たちなので
後半の登り道では相当バテ気味になる。



続くは山伏姿の「箕郷町御嶽教講者」の面々。午後の鎮魂祭では主役になる。



車に乗った姫君二人。



同じ車の反対側に長野業政役・業盛役とその奥方役。



その後ろには武者行列参加の各隊が続く。

















各地の武者行列で御馴染みの群馬甲冑愛好会(代表・加藤季彦さん)の方々。











約3Kと云われる道中では各隊が沿道の観客に対して様々なサービスをする。
エスビック隊の模擬鉄砲発射。





甲冑愛好会の抜刀勝ち鬨。




御嶽教隊は道中でも法螺貝を随時に吹き鳴らす。



行列は箕郷支所からー四谷ー鍛治町通りー本町通りを経て箕郷小で小休止の後、
本丸へ向かう。
途中の「水の手曲輪」に看板と篭城戦の激しさを思わせる歌碑。





大手口に相当する「虎韜口」に到着。ここから山道に入る。



小休止を兼ねて各隊が集結。



この法螺貝の合図があると



丘の上に設置された大砲が合図の一発。



山道はくねった急登でもあるので扮装のままではお疲れさんになる。



鍛冶曲輪や三の丸を過ぎると箕郷城を象徴する「大堀切」を右に見る。
この城址は大規模な空掘りが特徴で本丸付近では幅30M、深さ10Mの堀が巡らされており
この「大堀切」は非常時に城の中央部を南北に分断して守備範囲を縮小して
守りを固める役割を持っていた。



二の丸から本丸に向かうと関係した武将たちの名を記した幟が並ぶ。







この城は1500年頃の長野尚業の築城と推定され、以後は憲業ー業政ー業盛と四代66年間の
長野氏の拠点。
武田の支配は長野氏の滅亡から武田の滅亡までの1566-1582年、城主は内藤昌豊。
武田を滅ぼした織田の支配は信長の不慮の死で僅かの期間。1582-1582年滝川一益。
織田の後に乗り込んだのが北条氏で秀吉の小田原攻めまで続く。1582-1590年、
城主は北条氏邦。
この氏邦は氏康の四男で鉢形城主、小田原攻めでは篭城に反対して鉢形城に篭り
前田利家の助命嘆願で剃髪を条件に許されている。八年間は箕輪城主でもあった。
北条の滅亡後には徳川の支配、城主は井伊直政他1590-1598年で高崎移転により廃城。

本丸の入り口に城址石碑と城の配置図。





アトラクション会場になっている本丸広場では既に行事は始まっておりテントも
張られて観客多数。



MISATOだんべえ会の「だんべえ踊り」。



箕輪城太鼓保存会の太鼓演奏。



生原北野神社獅子舞保存会の獅子舞。



この間にも鎮魂祭の準備が進められている。



寄居鉢形城三鱗会による居合の演技。





新陰流正伝上泉会の新陰流兵法演武。





アトランション会場から離れて本丸の西にある御前曲輪での攻防戦練習を見学。



13.20頃、漸く開会式。トップで挨拶するのは地元の衆議院議員小渕優子、その数人右に
衆議院議員の福田達夫の顔も見られるが挨拶機会無し。



挨拶連続の長い長い開会式が終わるとこれも長い鎮魂祭。

14.20になってやっと長野業盛に依る着到状の読み上げ。ここから武田と長野勢の
模擬合戦が始まるが合戦のモデルは1566年9月28日の「若田ケ原の合戦」。
始める前にナレーションが入って「史実とは異なる」との念押し。お祭りなんだから
そんな事は許容範囲なので煩く詮索する必要はない。ここでは着到状を受けるのは
長野業政だが史実では業政はこの合戦の四年前には病死している。
若田ヶ原はJR群馬八幡駅の北の現在の若田町で、八幡霊園の辺り。







武田軍が動き出したと伝令が走りこむ。



長野親子を中心として上野勢が抜刀して気勢を上げる。長野勢として集まったのは
長野の家臣は少なくて同盟している小城主が大半で1500人、対する武田は二万。



模擬合戦は前後六回も繰り返される。長野勢には子供や女性が多いが遠征軍には
子供がいない。南に陣する赤が武田、北の青が長野。















武田勝頼と藤井豊後守友忠の一騎打ち、勝頼劣勢になって退く。

「去る永禄六年(実際は九年)、上州箕輪、松山にて四郎殿十八歳の時初陣に、
長野が内にて覚ある藤井豊後、物見に出でて帰るを追い懸け、組み討ちになさるる。
其の儀御屋形信玄公へ深く隠し申し候。飯富兵部殿見給ひて、我等に腹を切らせんと
御叱り候事」 (『甲陽軍鑑』品四〇より)







普通、初陣の物語は美化されるものだが、『甲陽軍鑑』に描かれた勝頼の場合は
正反対で、初陣の時から家臣の制止を聞かず無謀なことをしでかす、武勇はあるが
思慮のない「聊爾者(そそっかしい者)」として描かれている。世間一般的には『甲陽軍鑑』の生み出したこの勝頼イメージは勝頼=武田家を滅ぼした愚将というイメージで現在に至るまで受け継がれている。
この一騎打ちは『甲陽軍鑑』が恣意的に勝頼を悪し様に描くために作った創作であり
史実とは異なる。なぜなら信玄が上州箕輪城攻めの戦勝祈願を諏訪上社に行ったのは
永禄8年(1565年)2月吉日のことで、実際の攻撃は1566年で、この時すでに
藤井豊後守友忠は死亡している?から。但し記録上の藤井豊後の生没年は不詳。

長野業政と上泉伊勢守秀綱の出撃。





上泉伊勢守秀綱の一騎駈け。群がる武田勢を縦横に蹴散らすので拍手喝采。

秀綱は長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄の
偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にあり
多くの資料は信綱となっている。

史実のこの合戦経過は初戦では長野勢が押し捲り一旦は部分的ではあるが
安中辺まで押し返したが、武田は二万で逆襲、長野勢は箕輪城に撤退。
この合戦の翌日の早朝からの猛攻で落城、業盛は自刃。









武田軍が引いたので長野勢が広場の中央で勝ち鬨をあげ戦勝を祝う。ここで
14.46、本日の模擬合戦はディレクターさんの懸命なリードで無事に終了。



観客は長野勢の勝利に至極満足して散会していった。祭りはこれで良いんだな。


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