クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

上磯部の伝承(2)佐々木盛綱 H-18-9-15

2006-09-15 17:52:37 | 伝説・史跡探訪
大野九郎兵衛の墓?のある磯部の松岸寺にはもう一つの史跡がある。
それは「佐々木盛綱夫妻」の墓と称するもので此方は県文化財に指定されて、
小さいながらも舎の中である。盛綱の墓というより県内最古の五輪の搭と
言う事で指定されているようだ。記録によると年号が欠損して読み取れないと
されているが「建保6年」(1218)と判断されており、この年代ならば
盛綱が磯部に居を構えていた時期と合致するとか。


佐々木氏と言うと一般的には富士川で名馬「生月」を駆って梶原景季と先陣
争いをした「高綱」の方が馴染み深いが盛綱はその兄に当る。佐々木五人
兄弟の父・秀義は平治の乱で義朝に従って敗北したので兄弟は関東の
「渋谷重国」の庇護を受ける。1180年の頼朝旗揚げには四人が参加する
が「石橋山」の敗戦では頼朝と別かれて再び渋谷氏を頼って匿われる。
頼朝が鎌倉に入ると直ちに馳せ参じ、ご家人として活躍、1199年の頼朝の
死後に出家し「西念」と称するが「頼家」時代の1201年から磯部に居住し
越後の「城資盛」の乱を制するが、生没年は不祥。
この近くに盛綱の築いたとされる「城山」があると聞いたので探索に掛るが
生憎な事に磯部に「城山」は二つもあつた。取り敢えず、碓氷川の中橋と
十八号線の間に一つ目があったので行って見た。が、入り口の看板に
「簗瀬城址」とあって一寸戸惑い。

丘の広場には小さな稲荷神社があるだけで何となく城址の感じはしない。

諦めてもう一つの城山(ジョウヤマ)に向かう。今度は信越化学の東側の山と
聞いているので、先程の松岸寺の道に戻って次ぎの信号を南へ道なり。
暫くで信越化学の東門。その東南に小高い山があるので山裾をぐるっと南に
回ると城山入り口の看板発見。

ここは山全体が公園とされているらしい。登山道を進むと途中に「磯部音頭」
の碑があり、刻まれた歌詞を見て一安心。「ここは城山 盛綱公の 偲ぶ昔は
お城の跡よーー」
公園内は新しい看板が随所に建てられ、二の丸・三の丸・空壕・高土居・
物見平など雰囲気は十分。虚空地蔵菩薩のあるところが本丸跡であるが笹が
深くて看板も埋もれそう。

標識に「磯部城」とあるのが少し気になる。勝手に名前を付けるなよ!
目的達成で機嫌よく帰宅。
盛綱は範頼軍に属していた為に、義経軍ばかりの爺イは良く知らなかったが、
最大の活躍は1184年の屋島前哨戦の「藤戸の合戦」である。藤戸は今の
倉敷市。その頃、倉敷は未だ海、倉敷・有城と対岸の藤戸の間は巾ニキロの海峡、
児島半島も島だったらしい。この海峡を挟んで平家と対峙した範頼軍の士気は
最低、ここで盛綱は地元の漁師に浅瀬を聞き出し、部下7名を引き連れて馬で
海峡を渡り先陣をきって源氏を勝利に導いたとのこと。
(岡山図書館・「藤戸合戦の古戦場を尋ねて」)に依ると
現在、乗り出した岩・供養搭などが史跡とされているし、


藤戸では英雄とされ、盛綱橋の名もさる事ながらその橋の中央には銅像まで
有る。地味な墓と城址のみの磯部とは大違い。

秘話として、彼は情報漏れを恐れて浅瀬の場所を教えた漁師を殺害したが、
後に後悔して大供養を藤戸寺で催し写経を島に埋めた。その島が今の「経ヶ島」。

下の写真は岡山県立図書館所蔵の「盛綱乗り入れの図」の一部。

この近辺、伝承を探ればまだまだ楽しめそう。

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