クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

古城址探訪(1)  H-20-1-30

2008-01-31 08:22:07 | 伝説・史跡探訪
この所、箕輪・長野氏に興味が沸いてきているので関連史跡巡り。
先ずは長野氏初期の居住地と言われる「浜川道場」へ。この名は
ここにある古刹の「金池山来迎寺」の念仏道場があったからとの事。
来迎寺は長野氏子孫の菩提寺らしく墓地は長野さんだらけ。


本堂脇の双神道祖神に見える石像物にちょこんと頭を下げて左に回ると


長野宗家が作った三十数体の墓石群が並ぶ長野氏廟所がある。


説明によると、落城以来周囲の掘に埋もれていたのを大正十二年、
子孫達が発掘して現地に整備したとか。城内井戸からの墓石発見は
昭和二年だが、多分一連のものだろう。
碑文の読み取れるものは十数体と言われ1384―1504年のものとの事。
直ぐに箕郷に向かうと城址の道標、其れに従って進むと「搦め手」に
誘導される。車道脇に駐車場もあるが反対側へ細道を登り上げると
「搦め手」看板を見て


着いた所は東屋のある広い駐車場、いや「二の丸」広場。


ここは出撃拠点の積極的な郭とのことで専守防衛の「御前曲輪」と対極。
北ヘの展望が開けて赤城山が見事。


この丘城は西北―東南へ1250m、最大幅450m。関東での昔の戦いは野戦が
主で1440年の結城合戦に参加した関東武士が攻城戦を体験し、其れから
築城の必要性が認識されたのであるから、遺構の様な大規模なものは
15世紀を通じて絶えず改修され落城後も滝川一益や井伊直政によって
造られたーーーとは歴史先生のご託宣。
早速、本丸方面に進むと途中に「本丸門馬出し」の看板、ここから搦め手や
二の丸に突進したのだろうか。


本丸は南北100m、巾50mでサッカーでも出来そうな広場。


左手にお定まりの城址石碑、落城時期は永禄九年になっていてかっての
六年説は完全に消滅したらしい


更に手前に「犬はしり」の看板、昭和57年に発見されたもので土塁の
崩れを防止する三段積みの石垣で其の上が「犬走り」と言われる通路。


下に僅かにその石垣の一端が顔を出している。落城後の造成らしいが。


その先が落城の時、一族が自刃したと言う持仏堂があつた「御前曲輪」。


屋根付きの大形の井戸がある。昭和2年の発掘で大量の五輪搭や墓石が
発掘されたとか。


霊置山とも言われる玉木山にあったものを落城の時、御前曲輪に移した
らしいが、城兵が敵の手に渡さぬために井戸に隠したのか?
又は其の後の狼藉で投げこまれたのかは不明の由。井戸の中はこんな感じ。


その奥に城兵の慰霊碑。


西端の木段で一旦濠に下りるとそこは「御前曲輪の北堀」
その直ぐ右手に「稲荷曲輪」、


隣に「新曲輪」


左の草地を横切ると「丸馬出し」、近くの玉木山徒歩武者出撃口とか。


再び北掘に戻って三の丸に向かうが、途中の右手の山が玉木山なので
上ってみた。前述の様にここは霊置山と言われ城主祖先の霊がまつって
在った所。現在は登路もなく頂上はご覧の通り何もない。


「本丸掘」を経て


分岐看板の広場が「三の丸」


「大堀切と土橋」があるがここが城を南北に分断するところ。



北の中核部から南部に出るには只一箇所の「郭馬出」を通る以外にない。


つまり、南部の失陥が直ちに中核に及ばないようにしてあったとの事。
やがて分岐の「木俣」、「大手尾根口まで370m」、「観音口まで300m」
「椿名口まで520m」とあつたが、ここで打ち止めにして駐車場へ。
振り返ると地形を利用して縦横に走る深い壕に囲まれた多数の広い郭、
土橋を崩せばより守りやすくなる工夫など、山城ばかり見てきた爺イに
とっては驚異のスケールだつた。

車で南に回りこみ小学校脇の小道から「法峰寺」に向かう。
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3 コメント

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その井戸から・・・ (インレッド)
2008-01-31 23:07:19
箕輪城に行って来ましたか。山を歩くより大変なくらい道が沢山ありますね。その井戸から白川へ逃れる道があったとか?。
ところで長野業盛の奥方で美人の誉れたかかった藤鶴姫は上杉から嫁に来たとか、本当でしょうか?。
返信する
藤鶴姫様のこと (爺イ)
2008-02-01 14:21:49
インレッドさん、これは難問ですね。幾重にも伝説に包まれているので爺イも良く判りませんが、かってこの藤鶴姫伝説を追いかけた事があるのでその時のメモから抜粋します。
(1)高野谷戸にある藤鶴姫の墓はかって倉渕村文化財でしたが、合併によって現在は高崎市指定文化財。この公式記録ではこの墓の主は業政夫人となっています。

(2)巷間流布されている「蓑輪軍記」下巻には「業盛の御内室十八に成ける。村上天皇の末葉なりと云」として甲府に連行された後、信玄に殺された事を「信玄いきどふり芙蓉の莟み終にちらす」とありますが、いきなり村上天皇と
云われては如何ともし難い。元々上杉は藤原北家勧修寺流の中級公家出身だから繋がらない。
まあ、この軍記は愚僧と称する作者の身元も不明だし他の軍記ものを下敷きにした少なくも1660年以降の物語だから一寸置いといてだなー。

(3)大正十四年の「群馬郡誌」
「長野業政夫人越後上杉家の養女にして、入りて業政の夫人となれり。――
城脱出後、三ノ倉にて自害。従兵佐藤信正墓石をたて長く姫の菩提を弔わんとその霊をまつれり。ここまでは姫を業政夫人としている。

(4)清水儀平氏の「長野記」
「業盛の室上杉氏は故の定正の男、扇ヶ谷頼長の女なり。妙齢十八―――
農家に潜む晴信聞きて妾たらしめんと欲すーー是を告ぐる者あり獲られて甲斐に至るーー三ノ倉に長野氏室の墓ありーー」

(5)箕郷・長島家古文書
「業政の妻、五十ニ歳、三ノ倉に自害すーー」

(6)上州の史話と伝説
「落城に際しては婦女子の途連は禁じられたが、女房衆は極楽院で自害、業盛室は甲府に連れ去られて打ち首、もう一人先主業政の室・藤鶴姫も後室(後妻)とは云え自害。――
業盛に「そなたさまは上杉の出、この箕輪、最後の一兵まで武田と戦いましたること越府に告げる人は居りませぬ」と諭され脱出を計る。
その時姫は三十を一つ二つ越えたばかりーー。

そんなこんなで爺イの結論。

三の倉墓の藤鶴姫は業政の室だろう、それが後妻か側室かは不明であるが。17歳から廿歳の間に討ち死にした業盛の室は同じく上杉系統からの人で18歳歿は頷ける。美女を戦略品と思っていた晴信が当時で30歳過ぎ又は50歳過ぎの業政室を捕らえて連行とは考えにくい。
だから三ノ倉で自害したのが業政夫人、晴信に妾に所望されて拒否して斬られたのが業盛夫人だーーと云う事かな。

だが、上杉定正には嫡子がいなく「頼良」の名がない。例の道灌を粛清した甥の朝良を養子にしているのでこれが業盛室の父親かな?

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なるほど、良く解りました。 (インレrッド)
2008-02-01 20:49:04
またまたお世話になりました。
そうかも知れませんね。武田信玄は小幡信方に命じて藤鶴姫を探すように命じたようですので、よほどの美人だったのでしょうね!!。甲府に連れ去られたのが業盛の奥方で自害した藤鶴姫は業政の奥方か側室ならば納得します。
業盛の奥方は朝良の娘ですか、そのあたりかも知れませんね。納得しました。有難う御座います。
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