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クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

ブラリ 高崎史跡巡り H-18-8-19

2006-08-24 19:01:39 | 伝説・史跡探訪
  (上の写真は一里塚の老榎)
「関東北部に雷」との一言で足留めを食らって一週間を過ぎたが今日も駄目。
偶には一汗かきにと猛暑の中を近所の史跡巡り。
(1) 小八木町・鏡宮神社
自宅から高前バイパスを前橋方面へ。「小八木町北・信号」を左折して
「中川小」の向いの神社。ひなびた小さな神社であるが入り口左で予想外
のものを発見。
この付近で発掘されたと言う「祭祀巨石」。6世紀後半のものらしいが、
横2m高さ1.1mの榛名安山岩8トンとの事。

この神社、神亀2年の創建と言い伝えられているが、西暦725年、
聖武天皇の時代、藤原宇合や長屋王が生きていた遠い昔の事。言い伝えは
金星が昼間輝きその光の指す所を掘ったら古鏡が出てきたので社殿を建てて
祭ったと言うもの。祭神が凄い。
神話の中で「鏡作部カガミツクリべ」の遠祖、ヤタノカガミを作った女神で
天孫降臨の時に随行した五部神の一人「石凝姥命イシコメドリノミコト」。
境内に1895年の「鏡明碑」と言うのがあり難しい文言が刻まれているが
末尾に「小園江田宮書」とあり、この御仁、五万石事件の指導者の一人という。


(2) 小八木町・妙典寺の板碑
車は其の侭にして、鏡宮神社から少し先の妙典寺に向う。

ここには「康元の板碑」が同時代のものと思われる五輪の搭とともにある。

板碑とは追善供養の為の石製卒塔婆。
康元とは地名・人名ではなく年号。康元2年というから1257年のもの。
この板碑は高崎地区では最大・最古との事。日本最古のものは埼玉で発見
された1227年のもの。
古いにも拘わらず彫りは鮮明で阿弥陀三尊を表す三個の梵字が見える。

説明には阿弥陀三尊とは「阿弥陀如来」「勢至菩薩」「観音菩薩」の事とあつた。

(3) 大八木・諏訪神社の「常夜灯」
同じ道を西進して大八木工業団地途中で左折して諏訪神社を探し当てる。
しかし、境内を探してもそれらしきものはない。

諦めて高渋線に出ようとして小道を進んだら何と正面参道入り口があり其処の
通路の真中に巨大な高灯篭を発見。

説明によるとこれは元々、中山道新町宿の神流川河岸に武州・本庄宿と向かい
合っていた灯台だそうだ。それを明治時代に大八木で買い取ったのだとか。
高さ6㍍、側面に文化12年とあるから1815年のもの。

(4) 下小鳥・首塚
大八木から環状線を西進すると左手に「首塚」の標識がある。

ここを南に少し入ると
「枉怨旌表碑オウエンショウヒョウヒ」という難解な石碑がある。
1616年頃、この村に来た高崎藩の検見役が余りに酷いので怒った
農民に殺害された。藩主は報復として兵を出してこの民を
皆殺しにして首を刎ねたと言う。その首を葬ったところと言われるが、
胴塚の方はかっては桑畑の中にあったとも伝わるが現在地は不明。
検見とは稲の作柄の検査。この事件の年は大阪夏の陣の翌年のことで、
未だ混乱の時代、事件の確証となるものはなくあくまで伝承によるとか。
碑は1901年に村民有志による建立。


(5) 豊岡・若宮八幡
ここは爺イの馴染みのところ。戦時中から戦後数年間、疎開でこの近くに
住んでいたから。この八幡宮は源義家伝説に満ちている。

1051年に勃発した「前九年の役」で蝦夷討伐に向う源頼義に連れられて
13歳のとき、この豊岡に来た。父親は先行して常陸を経て進軍するも義家は
関東の軍勢の糾合のため暫く豊岡に留まる。その時の戦勝祈願の為に建立し
たとか、ここで元服したとか色々。境内には伝説定番の「義家腰掛け岩」
があると書いてあるがその表示物はない。仕方なく勝手にそれらしき岩の写真

旧暦の6月十八日、神のお告げで寿を祝ったら夏なのに忽ち雪が降り、
土用に寒中の景色を表したので「土用寒」と書いて奉納したと言う。
土用寒からトヨオカ、十八日もトヨーカであるのでこの辺の地名となり、
後の人が豊岡の字を当てたというもの。国内戦争は「変」と言われるが
当時の東北は朝廷からすると国内・日本人の扱いでなかったから海外並
の「役」。

(6) 藤塚の「一里塚」
環状線を抜けて十八号線を西進、間も無く左に古木の塚があり、其処が一里塚。

今は表示も現代風に替わっているが、塚は何となく歴史を物語る雰囲気。

県内では現存唯一のもの。
1604年、家康は各道に一里塚を整備させ榎を植えさせた。当初は街道の
一里毎の左右に作ったらしいがここのは中山道の南側の物のみしか残って
いないし、現存の老木は古いが当時の生き残りかどうかは不明。
ここは江戸日本橋から二十八里地点。

(7) 八幡八幡宮の算額
ここから僅かで北側に大きな八幡・八幡宮。ここにある算額を見に行く。

この神社は「天徳元年」の創建とされるので西暦957年、「目白竹」
「目青竹」「義家祈願」など伝説豊富で義重・義貞・信玄・氏直・家康・
綱吉などの参拝・寄進記録多数、銅丸と言われる甲冑もあると聞く。
本殿前に「唐銅灯篭」が一対。

肝心の算額は内部に三つあるが何れも擦れて読み取れないが一つだけの
「中曽根真吾」の署名が判別が付く。

三つとは「1810年・小野栄重 176x109」、「183年・藤井右門
148x91」「1860年・中曽根真吾 164x112」であるが、
小野栄重のものは群馬に残る70面の最古と言う。

(8) 東町・無縁堂
市街にとって返して田町北信号を左折して線路を潜り江木を過ぎ長野堰の
先を右折すると法輪寺墓地入り口の古い公園風の敷地があるがここが
無縁堂。寺尾に移る前の火葬場のあつた所。
この脇に「義人堂」がある。


これは1869年の五万石騒動の犠牲者の慰霊碑である。この騒動で命を
懸けて農民の為に奮闘し責任者としてここで斬首された三大総代・佐藤三喜蔵、
高井喜三郎、小島文次郎他運動の貫徹に尽した義人達をまつる。

(9) 通町・駿河大納言の墓
再び戻って田町先の複雑な一方通行の細道を辿って大信寺。

旭町の表通りにも看板はあるが此方から来ないと駐車は出来ない。

墓地の入り口近くにその墓はあるが、周辺の高層ビル化によって奇妙な
構図の写真となる。

忠長の事は余りに有名なので既述はしないが、興味あるのはテレビ・映画で
人気の松平長七郎が彼の息子である事である。忠長は1633年に自刃するが
長頼と言われた長七郎は高崎に留まり後に松平姓を与えられるが、天下を
放浪して無頼の生活を送った。この辺は講談その物であったようだ。
興味あるのが長七郎の生年が1614年とあるので忠長8歳の時の子と
なり、いかに何でも勘定が合わない。
暑さで参って本日はここで中断、続きは又後日。

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