
今度、晴天に恵まれたら展望を求めて赤城・長七郎山に行こうと思っている。
赤城はツツジの時期か、紅葉時期と相場が決まっているようだが、脚の遅い
爺イは列を作って登るような観光季節のハイクは好きではないから。
この山の名は松平長七郎に由来するという俗説がある。先日来の史跡探訪で
駿河大納言・忠長の墓所や自決の部屋を見たとき、忠長の遺児が長七郎という
伝説があると知ったので尚更の事。
先ず、「勢多郡誌」の「山に関する伝説」の項に「松平長七郎を祀ったという
宮がこの峰にある。この神様は事の善悪を問わず、先に願をかけた方を守って
くれる神様だといい、訴訟事にご利益がある」とある。
更に今井善一郎著・「赤城の神」の「赤城の地名について」P-215では何故に
この山を長七郎山と呼ぶのかは不明としながも「長七郎は島原の乱への参戦では
臆病風に吹かれて遅参した。それから臆病の神様として信仰があり、戦争中に
小さな金属の鳥居が沢山上げられ、古くなって欠けたのを貰ってお守りにすれば
安全との由」との記述がある。この本は煥乎堂S-48の出版であるが既に販売中止
になってるので図書館で見つけた。写真はその裏表紙。

しかし、「都丸十九一著・赤城山民俗記」のP-254ではこの二つについてあっさり
と「山名の由来は不明。長七郎は歴史上の人物とは思えない」と一括処理。

確かにどの登山HPを見ても勢多郡誌の様に長七郎山に石宮があるとは書いて
いない。近くの小地蔵山には藪に埋もれた石宮がある筈とは書かれているが
これはれっきとした「虚空蔵菩薩」の在った所。現在は黒保根・医光寺に安置。
「桐生山野研究会」のHPではもっとあっさり「伝説は山名からのこじ付け」
と一蹴。だが、山名由来を書いたものが見つからない。どなたかご存知?
長七郎の事が一般に良く知られるようになったのは、「村上元三著・松平
長七郎旅日記」シリーズ(人物文庫)なる時代小説(歴史小説ではない)が出て、
これが日テレによってドラマ化され、主演の里見浩太郎人気も影響して第三
シリーズまで作られて放映された事による。
そして後に鷹司松平家として大名となった事になってしまった。
文庫本の表紙にも「大納言忠長の遺児・家光の甥」と書かれているので、
それが「痛快!時代小説」である事も忘れてコロリと実在と錯覚する。
「旅日記」のP-19、「江戸日記」のP-15には「長七郎の亡父は駿河大納言
忠長・秀忠の第二子・家光の甥・織田信良の娘の子・父親自刃の時五歳」等の
言葉が並ぶ。

しかし、当然の事ながら実際には鷹司松平家の祖が長七郎というのは俗説の
範疇を出ないのである。
家光の正室・孝子は鷹司信房の娘であるが、その輿入れに従って江戸に入った
孝子の弟の信平が旗本になり、1654年に松平姓となつて鷹司松平家の祖。
俗説はこの信平が長七郎の息子で鷹司家で養われていたとするものや、信平
自身が長七郎というもの。
司馬遼太郎ですらその著「幕末」の中で(P-62)、幕末の時期、講武所
教授方を務め芹沢鴨暗殺の後、「新徴組・支配役」になって活躍した松平主税介
を語る件りで長沢松平家出身の主税介を「駿河大納言家唯一の血統」と書いて
しまい、その上に「講談や小説で有名な長七郎の血統」として,
出目の間違いと系統の誤認、歴史に架空かもしれない人物を振り込むという
念の入った錯誤を三つも犯している。司馬作品は津本陽と並んで資料の裏づけ
が正確との一般評価からすると爺イの様な素人を惑わす事、極めて困りもの。

これらの長七郎の実在を示唆する表現が俗説を勢いづけるが「長七郎は忠長の
自決後に諸国を放浪の後、鷹司松平家として大名に列せられる」とする説も
鷹司松平家が一万石の大名になるのは、始祖の孫の時代であるのに。
伝説では長七郎の母が鷹司家の出とされるものがあるが、忠長の正室は
織田信長の孫・信良の娘。
又、家祖が長七郎の息子説の出所は、諸国放浪の折、大阪で町人の娘と同棲し、
その娘の懐妊中に島原の乱に参戦するため娘を鷹司家に預ける。生まれた男子
は鷹司家で成育し信平となって孝子の弟として江戸に行ったという繋がり。
きちんとした記録での長七郎の生没年は「不祥」であり、存在は確認されて
いない。神話の時代ではあるまいし、江戸時代で生没年不祥とは実在しないと
言う事だろう。きっと似たような人物が擬せられた?。
小説はあくまで小説、伝説はそうあって欲しいという庶民の願望。
まあ いいや。兎に角、長七郎山に行って来よう。
赤城の中で一番楽だと言うので爺イには丁度良いだろう。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
赤城はツツジの時期か、紅葉時期と相場が決まっているようだが、脚の遅い
爺イは列を作って登るような観光季節のハイクは好きではないから。
この山の名は松平長七郎に由来するという俗説がある。先日来の史跡探訪で
駿河大納言・忠長の墓所や自決の部屋を見たとき、忠長の遺児が長七郎という
伝説があると知ったので尚更の事。
先ず、「勢多郡誌」の「山に関する伝説」の項に「松平長七郎を祀ったという
宮がこの峰にある。この神様は事の善悪を問わず、先に願をかけた方を守って
くれる神様だといい、訴訟事にご利益がある」とある。
更に今井善一郎著・「赤城の神」の「赤城の地名について」P-215では何故に
この山を長七郎山と呼ぶのかは不明としながも「長七郎は島原の乱への参戦では
臆病風に吹かれて遅参した。それから臆病の神様として信仰があり、戦争中に
小さな金属の鳥居が沢山上げられ、古くなって欠けたのを貰ってお守りにすれば
安全との由」との記述がある。この本は煥乎堂S-48の出版であるが既に販売中止
になってるので図書館で見つけた。写真はその裏表紙。

しかし、「都丸十九一著・赤城山民俗記」のP-254ではこの二つについてあっさり
と「山名の由来は不明。長七郎は歴史上の人物とは思えない」と一括処理。

確かにどの登山HPを見ても勢多郡誌の様に長七郎山に石宮があるとは書いて
いない。近くの小地蔵山には藪に埋もれた石宮がある筈とは書かれているが
これはれっきとした「虚空蔵菩薩」の在った所。現在は黒保根・医光寺に安置。
「桐生山野研究会」のHPではもっとあっさり「伝説は山名からのこじ付け」
と一蹴。だが、山名由来を書いたものが見つからない。どなたかご存知?
長七郎の事が一般に良く知られるようになったのは、「村上元三著・松平
長七郎旅日記」シリーズ(人物文庫)なる時代小説(歴史小説ではない)が出て、
これが日テレによってドラマ化され、主演の里見浩太郎人気も影響して第三
シリーズまで作られて放映された事による。
そして後に鷹司松平家として大名となった事になってしまった。
文庫本の表紙にも「大納言忠長の遺児・家光の甥」と書かれているので、
それが「痛快!時代小説」である事も忘れてコロリと実在と錯覚する。
「旅日記」のP-19、「江戸日記」のP-15には「長七郎の亡父は駿河大納言
忠長・秀忠の第二子・家光の甥・織田信良の娘の子・父親自刃の時五歳」等の
言葉が並ぶ。

しかし、当然の事ながら実際には鷹司松平家の祖が長七郎というのは俗説の
範疇を出ないのである。
家光の正室・孝子は鷹司信房の娘であるが、その輿入れに従って江戸に入った
孝子の弟の信平が旗本になり、1654年に松平姓となつて鷹司松平家の祖。
俗説はこの信平が長七郎の息子で鷹司家で養われていたとするものや、信平
自身が長七郎というもの。
司馬遼太郎ですらその著「幕末」の中で(P-62)、幕末の時期、講武所
教授方を務め芹沢鴨暗殺の後、「新徴組・支配役」になって活躍した松平主税介
を語る件りで長沢松平家出身の主税介を「駿河大納言家唯一の血統」と書いて
しまい、その上に「講談や小説で有名な長七郎の血統」として,
出目の間違いと系統の誤認、歴史に架空かもしれない人物を振り込むという
念の入った錯誤を三つも犯している。司馬作品は津本陽と並んで資料の裏づけ
が正確との一般評価からすると爺イの様な素人を惑わす事、極めて困りもの。

これらの長七郎の実在を示唆する表現が俗説を勢いづけるが「長七郎は忠長の
自決後に諸国を放浪の後、鷹司松平家として大名に列せられる」とする説も
鷹司松平家が一万石の大名になるのは、始祖の孫の時代であるのに。
伝説では長七郎の母が鷹司家の出とされるものがあるが、忠長の正室は
織田信長の孫・信良の娘。
又、家祖が長七郎の息子説の出所は、諸国放浪の折、大阪で町人の娘と同棲し、
その娘の懐妊中に島原の乱に参戦するため娘を鷹司家に預ける。生まれた男子
は鷹司家で成育し信平となって孝子の弟として江戸に行ったという繋がり。
きちんとした記録での長七郎の生没年は「不祥」であり、存在は確認されて
いない。神話の時代ではあるまいし、江戸時代で生没年不祥とは実在しないと
言う事だろう。きっと似たような人物が擬せられた?。
小説はあくまで小説、伝説はそうあって欲しいという庶民の願望。
まあ いいや。兎に角、長七郎山に行って来よう。
赤城の中で一番楽だと言うので爺イには丁度良いだろう。
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桐生山野研究会は「やまの町 桐生」の店子さんです。長七郎山へは是非小沼尻から登ってみてください。頂上0.5km、標高差100mとお手軽ですが、なかなか趣のあるコースです。詳しくは当会のHPをご覧ください。西毛の山の探検が一段落したら東毛の山にもお越しください。
折角なら晴天が望ましいので週間天気予報を睨みながら狙い日を探っています。高崎から前橋市中を突っ切るのが億劫で今まで全く赤城には行っていませんでしたが、そろそろ足を伸ばそうと考えています。今後とも宜しく。