教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

原子力発電所の事故から学ぶべきこと─裸の猿の火遊びを再考せよ

2011年05月12日 | 裸の猿
▼菅首相は10日、首相官邸で記者会見し、東京電力福島第一原発の事故を受けた今後のエネルギー政策について、「従来の計画を白紙に戻 して議論する」と述べ、原発への依存を減らす方針を表明した(読売新聞)――という。「これは良くない。問題だ」と痛切に感じたのであれば、改めるのを躊躇すべきではない。それもまた指導者に欠かせない資質だ。徒に利害の僕にばかりなるべきではなかろう。

彼や彼の属する政党(民主党)が日本に原発を持ち込んだ訳ではないのに、その対応の稚拙さからか、まるで真犯人か首謀者のようなマスコミの扱いである。本当はマスコミも原発の推進には一枚も二枚もかんでいるはずなのに、まるで自分達は無実の被害者の仲間であるかのような論調であるのは頂けない。

▼これだけ大多数の国民に被害と厄災をもたらせば、国内の政治経済や国際社会での立場にそれなりの遅れが出ようとも、利害や利権の立場に立ってのみ原発推進など唱えられるはずもない。浜岡原発停止要請もその線に沿ったものだろう。何よりも復旧・復興にこそエネルギーを注ぐべきだ。

▼思うに、我々人類はまだ原子力に手を染めるべきではないのかもしれない。我々人類が現在、原子力エネルギーで利用できているのは熱エネルギーとして使用する方式だけである。言うなれば火力発電の代替である。これは神の領域にあるエネルギーの使い方としてはほんの初級クラスのものでしかないのではないか。原子力発電所の暴走で右往左往する姿は、原子力の火遊びをして飛んでもないことになって慌てふためいている裸の猿にでも例えられるべきもの、人間の燃やした焚き火で火遊びをして自分の毛皮に火がついてびっくりしているチンパンジーにでも例えられるようなものではないのか。

やがては科学も技能も人類の心性もさらに進歩した場合には、あるいは制御できるようになるのかもしれない。しかし、我々人類はまだそれを使いこなせる域には達していないように思われる。我々は神ではない、限界ある生を生きる人間なのだということを忘れるべきではあるまい。今一度、自然の力の前で謙虚にあるべき時である。



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